物質とデータが混在する現代は稀有な時代なのだろう

物を作ってる側からすると「なんでも無料でもらえると思うなんてけしからん」と脊髄反射してしまいがちだけど、これは過渡期だからそう考えてしまうだけかもしれない。そもそも電子書籍や電子ゲームなど仮想的にしか存在しない者に対して、物質と同じ値段を付けて販売するというのはどう考えてもおかしい。コンテンツを作るためには同じぐらいのお金がかかると言っているが、どう考えても電子データのほうがコストは安い。流通コストはなくなるし、保管するための倉庫もいらないし、販売するためのコストもいらないし、印刷するためのコストもいらないのだから、物質と同じ値段でしか作れないと言われても眉唾だと考えてしまいがちだ。

しかし、そんな簡単な話でもない。今は過渡期だから物質の販売と電子的なデータの販売の両方を行っているところがほとんどだ。なので、物を作るのは0に出来ているわけではなくて、物を作って販売するまでのルートは残しておく必要がある。0から1を作るコストは非常に大きいが、1を100にするのは既に出来上がっているルートに流れる量が変わるだけだからそこまで変わらないのだろう。ということで、両方が流通している現状のコストはあまり変わっておらず、電子媒体だろうが物を販売していようが同じ値段で販売しないと採算が取れないのだろう。そう。中間業者がまるまる搾取してウッハウハとかいう単純な話ではきっとないのだ。

すべての物は電子化していくことはほぼ間違いない。本であれ音楽であれ物質はなくなりデータが重要になる。音楽などは昔からデータを物に転送するのを個人でやっていたので電子化はスムーズに進んでる。しかし、本は物を個人で作るノウハウはなく、まだまだ時間がかかりそうだ。だが、電子データを持っていくと製本してくれるサービスが出来上がれば、誰もが電子データを買うようになるだろうし、コンビニとかがそのうちサービスとして始めそうな気がしている。物を個人が作れるようになる、つまり質の良い3Dプリンタが各個人が持つような未来が来れば、必然的に電子データを買えば物が手に入るようになり、ここまでくれば物と電子データの境目は非常に曖昧になるだろう。つまり、現状の物と電子データの両方を販売しているのは非常に過渡的な状態なのだ。

全てが電子データで販売できるようになれば物流のコストがなくなりコストは劇的に下がる。そうなれば、広告モデルで十分元がとれるようになるかもしれないし、定額サービスで全てがまかなえるようになるのかもしれない。もしかしたら、全ての創作物は一つのマーケット上に並び、そこが何らかの方法で稼いだ金を分配し、全てが無料で手に入れる時代が来るかもしれない。そのような未来では、今のように爆発的に稼いでいるクリエイターが1人とその他大勢という構造から、爆発的に稼ぐ人間はいないけれど、全員が満遍なく稼げるようになる時代が来るのだろう。誰もが稼げるけど誰も稼げないという世界が良いのか悪いのかわからないが、好きなことをして生きていける確率は今よりも高そうだ。なんとなく今の世界よりも好きなことをしながら誰もが生きるのに困らない程度は稼げていそうなので、物を作って生活している人間としては複雑だけどそんな未来が来ると良いなとは思う。きっと未来はそんなに暗くはない。

誰かのために何かをして安易に感謝を求めるのは健全じゃないと思う

僕は「ママがおばけになっちゃった!」を最初に読んだ時に、非常に不快でこの本を子供には読ませたくないと思った。なぜかというと、「お母さんがいなくなったらどれだけ大変か」というのを語って、子供がお母さんに対して感謝をする以外の選択肢をなくした状態の本だと思ったからだ。感謝というのは相手に強いるものではないし、感謝しか言葉がでないものを相手に渡すのは好きではない。同じような理由で「1/2成人式」というのも嫌いだ。かろうじて許せるのは結婚式の時に読む「親への手紙」ぐらいだろうか。一応、結婚式は自分のためにするものであるし、その時に読む手紙も自分が書くものであって、結果はわかりきっているであろうが自発的に動いているから許せるのだと思う。「子供は親に感謝するものだ」というのは親のエゴでしか無いということを理解せずに、簡単に感謝の言葉を聴けるであろう歌や本を渡すのはいかがなものかと思う。

ちょうどよいタイミングで朝井リョウが「安易に感謝の言葉を求める人間」というのを言語化していた。

朝井:それは夫婦とか関係なく、人と人との関係全部に言えることだと思うんですけど、例えばAKBで総選挙っていうものがあるとして、応援するときに私は「あの子のために」っていう風に自分の考えや人生を誰かに預けるってことをした途端に、人間の関係は不健康なものになると思っていて。

朝井:自分が、「あなたのことを大切に思っている気持ちを表すために、料理を作った。」ってなると、そのあと何か裏切られるようなことがあったとしても、「自分の気持ちを表現するために料理を作ったん“だから”」って。

これはすごくいい指摘だと僕は思っている。多分、「ママがおばけになっちゃった!」もそうだし、「あたしおかあさんだから」もそうだけれど、お母さんが子供の「ため」に行動しているという視点で書かれているから僕は嫌悪感を持ってしまっているんだと思う。お母さんも人間なのだから自分の楽しみもちゃんとやるし、子供の「ため」だけにやっていることなんて無い。子供のことをやっていることは自分のためだったりもして、そのへんは非常に紙一重だったりする。例えば、自分の服は適当に済ませて子供には良い服を着せたりするんだけど、それは我慢して子供に買ってあげてるわけじゃなくて、子供に可愛い服を着せたいという楽しみの一面だったりもする。自分の服を買うことよりも子供の服を買ったほうが楽しいし幸せだからやっていることなのかもしれないわけだ。なのに全てを子供の「ため」にやっている行動だと言い続けて、相手から何かの返答を求めるのは人間的だけどあまり健全な考え方ではないんだと思う。

感謝なんて強要するものじゃない。自分がやっている行動は自分がやりたいからやっていて、その動機が相手の喜びであるのかもしれない。結果として相手から感謝をもらえるのかもしれないが、相手から感謝してもらわれるために行動するとろくなことはおきない。このことを心に留めながら生きていったほうが病みにくいじゃないのかなと僕は思っている。

前フリがないシモネタは品格を疑われるものですよね

「誰か」を名指しして侮辱するならその「誰か」は起こる権利はあるだろうが、不特定多数に対して言っていることに対して侮辱していることについてセクハラだろって言い出すと世の中を生きづらくしているだけにしか思えない。例えば、酒飲んでる時に童貞の話をして盛り上がっている女性の席があるとして、その席に童貞の男が乗り込んでいって「お前らの話で俺は傷ついた。謝れ」って言ったとしても、女性は謝らないだろうし世間一般的に言えば男性側がセクハラされたとは擁護してくれないだろう。

童貞いじりとかもそうだけれど、基本的になにかをいじるネタというのはTPOが大事であって、笑いがおきるかどうかっていうのは場が非常に大事だと思っている。童貞を馬鹿にしてはいけない状況で童貞を馬鹿にすれば笑いは置きないし、貧乳を馬鹿にしてはいけない状況で貧乳を馬鹿にしても笑いはおきない。前に話した時は大爆笑をかっさらった鉄板の下ネタであったとしても、場が変われば全く笑いが起きないどころか軽蔑の目で見られることもあるだろう。だから芸人は場を作るために前フリをして、その時と同じ状況を作っているのだ。その入念な前フリが出来ない状況で、誰かをいじって死ぬほど軽蔑されて笑い話だと思ったと言っても、それを理解してもらうのは難しいだろう。

そして、インターネットは場の共有が出来ないのだ。空気の共有に非常に向いていないのだ。その場ではグループ内で共有できていたであろう前フリがある前提で書いている文章を、全く前フリを知らない人間が見て軽蔑されるのだ。そして、軽蔑を通り越して侮辱されたと怒り出す人間が出てくるんだ。はあちゅうさんの状況ってこれだと思っている。前フリをちゃんと出来ない状況でのいじりが全員に理解されるなんてほぼ不可能で、それを公衆の面前で言う人間は軽蔑されてもしょうがないのだよ。家の中で酒を飲んでいる時に童貞の話をしたら面白いだろうが、重要な会議の最中に童貞の話をしたら頭がオカシイんじゃないかと思われるだろう。TPOって大事なんだよ。

ただし、その前提を踏まえたとしても、直接的に言われたセクハラと、不特定多数に対して言っているセクハラを同一で語るのは非常に微妙だと思うんだよね。「お前が言うな」は非常にわかるけど、「お前がやってることはお前がやられたことと同じだろ」っていうのは違うと思う。嫌ならば見なければいいというのが通用する状態と、嫌でも見なければいけない状態でやられることは違う。不特定多数に対して行われるセクハラは品格が疑われるが、直接的に行うセクハラは人格を疑われる。グレーというか、限りなく白に近い黒な話と真っ黒な話を同じ土俵で離すのはちょっと違うと思っていて、限りなく白に近い黒だと思われる、不特定多数に対して発せられる、前提を共用している状況で笑い話になる「いじり」ぐらいは許容しないと世の中生きづらくなってしょうがないんじゃなかろうか。

セキュリティの入門本なのだろうか #スマホを落としただけなのに

読んだ。面白かった。

ざっくりとあらすじを書くと彼氏が落としたスマホを連続殺人犯が拾ってしまい、そのせいで彼女が狙われてしまう話となる。犯人はあの手この手で彼女の情報を取得していくわけだけれど、その手口が非常に具体的でよく調べてるなと思った。やろうと思えば出来るだろうなと思われることが非常に多くて、SNSを使用したソーシャルハッキングとかよく調べてるなという印象。ただ、そこが非常に上手く出来ているせいか、内容よりもそちらに目が向いてしまったのが悲しい。職業柄、プログラミングやハッキング手法などが出てくると、それが実現可能なのかを頭で考えてしまうのだが、そんなことを考えない人であれば楽しく読めるんじゃなかろうか。

しかし、最後に出てくる裏設定は必要だったのか?その感動を作るためだけに出てくる設定がかなり気になった。突如出てきて、「ほら、いい話でしょ」と言われても僕は全然感動できなかった。結末が難しすぎてしょうがなく入れたのかもしれないが、よくわからなかった。全体的に話の流れもわかりやすくテンポも良いので読みやすいと思うので、SNSの怖さ、ハッキングの怖さ、インターネットの怖さをわかりたい人は読んでみると良いと思う。話の内容は特にこれといって、だが勉強のために読むのは良いと思う。

イクメンなんて死んでも口に出さないほうが良い

イクメンなんて口が避けても言ってはいけない。あなたがやったつもりになっている家事は他の人から見れば家事になっていない可能性はいくらでもある。そもそも、イクメンというのは他人が総称する言葉であって、自分から発言する言葉ではない。妻がいない状態で言うのは100歩譲っていいだろう。しかし、妻がいる前でその言葉を発するのは地雷を自分から踏みに行っているに過ぎない。

あなたがものすごく育児に協力していたとしても言ってはいけない。掃除、洗濯、炊事等、一般的に家事と呼ばれるものをすべてやっていたとしても言ってはいけない。自分が自由になる時間全てを子供のために注いていだとしても言ってはいけない。どれだけ努力をしてあなたが育児をしていたとしても、それを評価するのは所詮他人だ。あなたがやった全ての行いはもしかしたら全て妻の邪魔をしているのかもしれない。洗濯物のたたみ方が違うのにストレスを感じているが、せっかくやってくれているから文句を言わないでいてくれるのかもしれない。何が綺麗で何が汚いか、どういう家にしたいかは人によって違い、あなたが全てをやったとしてもそれは妻のやりたかったことを阻害している可能性はある。それを忘れてはいけない。

だからといって、何もやらなくていいという話ではない。自分がやれることはやるべきだし、やったほしいだろうなと思うことはやるべきだ。それは間違いない。しかし、それをひけらかすのは良くないということだ。あなたがやったことはひけらかして自慢できることではないかもしれないということをつねに頭においておいたほうが良い。一生懸命いろんなことをやったとしても、それは卓上の醤油を取ってくれたぐらいにしか相手は思っていないかもしれない。そこはどれだけ頑張っても相手にしかわからないことなのだ。笑顔でありがとうと言ってくれたかもしれないが、その裏にはもっとしっかりやれよ、この糞ボケが。という言葉が含まれているのかもしれない。そこを決して忘れてはいけない。

そう。自分がやっている育児は「当たり前」なのだ。それは他の人間もやっていることで自分がやっているのをすごいと思ってはいけないのだ。そこを念頭に置いていれば自然と「自分はイクメンだ」という言葉など出てこない。「自分はイクメンだ」などという世迷言が口に出てしまっているのであればよく考えるべきだ。本当に自分がやっていることを相手は全て感謝してくれているのかということを。妻の口から「いつも育児を手伝ってくれてありがとう」と言われるのを待ち続けながら育児に参加させてもらっているという気持ちを忘れずに生きていく。これが現代の夫に対して求められている考えだと思う。


ゲーム中の駆け引きはおもしろかった #プロパガンダゲーム

読んだ。綺麗にまとめました感が強かった。

ざっくりとしたあらすじを書くと、変わった入社試験の話になる。その変わった試験というのは、集団面接に集められた人間を政府側とレジスタンス側に分けて戦争をするかしないかについて市民を扇動する。先導した結果、戦争賛成が多ければ政府の勝利、戦争反対が多ければレジスタンスの勝利となる。巧みな心理戦を期待して読み始め、プロパガンダゲーム中は非常に盛り上がるので面白い。そう、ゲーム中は非常に面白かっただけにその後の話はもっと単純にまとめればよかったのではないかと思ってしまった。

戦争を扇動するという難しいテーマについては書いているだけあって、オチの付け方が非常に難しかったのだろう。現在、北朝鮮との緊張が高まっている現状、戦争という言葉が現実味を帯びているからこそ誰かが考えた仮想的な戦争についての討論というのは面白かったが、せっかく小説なのだからもうちょっとぶっ飛んだオチでも良かったのではないかと思ってしまう。問題提起をするのもいいだろうが、小説ぐらいもうちょっと気楽に読めたほうが楽しいんじゃないだろうか。

自分は「中の上」だと言っている理由

まず、自分が上位グループに属していると考えてみる。そうすると、性格上色んな人を見下してしまいそうな気がしている。今までの経験上、人を見下して会話をすると大抵良いことが起きない。ただでさえ人を見下している様に取られることが多い方なのでこれは良くない。自分が上にいすぎると考えると努力する必然性も感じることができないのがあまり良くない。なので、自分が上位グループに存在していると認識するのは意識的に避けている。

次に自分が下位グループに属していると考えてみる。そうなると努力する必然性も出てくる。しかし、下位グループにいるということは、足を引っ張っているということと変わらない。性格上、足を引っ張っているというのはあまり好きではないので努力をするのだろうが、どこまで努力をすれば下位グループから脱却できたのかという保証は何もない。努力し続けても何も結果が出なかった場合、自分の無能感に絶望し精神的にあまり良くない。わざわざ好き好んで挫折感を感じたくもないのでこれも避けている。

じゃあ、自分が中間だと考えてみるとどうだろう。これは結構いい線いっている。周りを見渡せば自分より出来る人もいれば出来ない人もいる。大抵どんなグループに属しても指標を変えれば出来ることと出来ないことが別れる。何かで負けていても別のところで勝っていれば自尊心を保てるし、上位グループに進むためにも努力する必然性はある。けれど、努力しなかったとしても真ん中にいるのだからしないならしくても良い。ただ、自分が中間だと考えると、自分ができることを出来ない人間というのは必然的に下位グループに属するということになる。自分ができることを人が当たり前にできると考えるのは危険なのでそう考えるようにはなりたくない。

こう考えていくと、自分は中の上にいると考えるのが精神的にも他の人に接するときにもちょうどいいバランスなんだと思っている。自分より出来ない人には優しく出来るし、自分よりできる人には強いリスペクトを持てる。適度に努力をしなければなず、努力しなくて精神的に追い詰められることもない。世の中絶対値で評価できることなど、なにかのテストぐらいで他の人間力や才能は感覚値でしかなく自分が勝手に判断するしか無い。だから適当に自分が居心地が良い場所を探して勝手に言ってれば良いんだろうと思う。

極楽だけに「毒」がないのが残念 #極楽プリズン

読んだ。あまり毒が無いなと思った。

あらすじをざっくり書くと飲み屋の与太話だと思う。初めて入ったバーでたまたま隣りに座った男の与太話が延々続くわけだけど、この男の離す内容があまりにも突拍子もなさすぎて思わず引き込まれてしまう。脱獄自由で何をするのも自由な刑務所なんて刑務所の話なんて普通は信用できないけど、酒の肴として聴くには非常に面白いと思うし、もし僕がたまたま入ったバーの隣に座った人が同じような話をしてきたら続きが気になってしまうだろう。そういった意味では現実味があり、はなしてることは現実味がないというバランスが良いと思う。

僕は木下半太という作家が好きで、この人が書いた作品は何個か読んでいるのだけど本作ではこの人特有の「毒」が非常に薄かった。この人は人間の毒をコミカルなシチュエーションと性格でオブラートに包むのが非常に上手く、僕が好きな理由もそこにある。しかし本作では出てくる人間は最終的にいい人しかいないし終わり方もきれいになっている。設定の妙と大きな仕掛けは相変わらず素晴らしいと思うが、「毒」が好きな僕からすると少し残念な作品だった。これを読むなら「悪夢のエレベーター」とか「鈴木ごっこ」とかの方が木下半太らしく面白いと思う。きれいな話が好きな人なら読んでみても損はしない作品だと思う。

不幸の預言書によるずれた運命の交錯 #共犯マジック

読んだ。予想と違うまとめ方だった。

この本のあらすじをざっくり書くとよく当たると評判の占い本に運命を狂わされた人間たちの話となる。本の運命が狂わされるという前提で話が進んでいくにも関わらず、別にそこまで運命狂わされてないじゃないかと思ってしまう。この本を手に取った予想としては、例えば「交通事故にあう」と予言された人間があの手この手を使って交通事故を回避しようとするが、その結果交通事故にあってしまうというような話かと思った。しかし内容はぜんぜん違う。最後に全てを集約させるために一つ一つの点を物語として記載し、その鍵として預言書をもってきている用に読めたので、預言書の絶対感が薄い。万能的な予言ではなく、巷に溢れているふわっとした予言と変わらないように読めてしまう。

僕がこの本を読み出すのは帯に記載された「あなたも知らずに共犯になる」という文言だった。しかし僕にはどこが共犯になるのかわからなかった。本を読んだからこそ微妙に運命がずれた結果の話が記載されているので、僕もこの本を読んだことによって本来進むべき道からずれてしまい、何らかの今日何になるのかもしれない。しかし僕にはそれは現時点ではわからないし起こった後もわからないのだろう。という感想ぐらいは出て来るが、読んだほうが良いかと言われるとそこまでおすすめはしない。読みたければ読めばいいと思うが、別の本を読んだほうが面白いんじゃないかと思う。

ループする法則が新しいループもの #七回死んだ男

読んだ。ループものとしては及第点は取っていると思う。

あらすじをざっくりいうとたまに1日を繰り返してしまう体質を持つ主人公がおじいさんが死んでしまうのを阻止する話となる。何をやっても死んでしまうおじいさんをあの手この手で阻止しようとする主人公の奔走は面白い。ループものは多々あるが、繰り返す回数が決まっていて8週目に行ったことが現実となるという設定も新しい。新しいと言いながらもこの話自体が古いのでこの話を見てからループものを書いている人のほうが多いのかもしれない。

最後にどんでん返しが!みたいな噂から読み出した本だったが読み終わった感想としてそこまでどんでん返しというわけでもないと思う。全てが終わった後に切れ者の僕が答え合わせをして読者にちゃんと説明するのは好意がもてるが、後日談は必要だったのかがよくわからない。やはりループものは終わり方が難しいのだろうか。若者が書いて書き終わったのに終わらせたくなくて書いちゃった感じがいなめない。

全体的にほんとしては読みやすくループものが好きな人なら読んで損は無いんじゃなかろうか。別にどんでん返しもないと思って先を予想せずに読み進めていけば楽しめると思う。しかも、作者のあとがきが3個乗っているというのがなかなか趣深い。