物質とデータが混在する現代は稀有な時代なのだろう

物を作ってる側からすると「なんでも無料でもらえると思うなんてけしからん」と脊髄反射してしまいがちだけど、これは過渡期だからそう考えてしまうだけかもしれない。そもそも電子書籍や電子ゲームなど仮想的にしか存在しない者に対して、物質と同じ値段を付けて販売するというのはどう考えてもおかしい。コンテンツを作るためには同じぐらいのお金がかかると言っているが、どう考えても電子データのほうがコストは安い。流通コストはなくなるし、保管するための倉庫もいらないし、販売するためのコストもいらないし、印刷するためのコストもいらないのだから、物質と同じ値段でしか作れないと言われても眉唾だと考えてしまいがちだ。

しかし、そんな簡単な話でもない。今は過渡期だから物質の販売と電子的なデータの販売の両方を行っているところがほとんどだ。なので、物を作るのは0に出来ているわけではなくて、物を作って販売するまでのルートは残しておく必要がある。0から1を作るコストは非常に大きいが、1を100にするのは既に出来上がっているルートに流れる量が変わるだけだからそこまで変わらないのだろう。ということで、両方が流通している現状のコストはあまり変わっておらず、電子媒体だろうが物を販売していようが同じ値段で販売しないと採算が取れないのだろう。そう。中間業者がまるまる搾取してウッハウハとかいう単純な話ではきっとないのだ。

すべての物は電子化していくことはほぼ間違いない。本であれ音楽であれ物質はなくなりデータが重要になる。音楽などは昔からデータを物に転送するのを個人でやっていたので電子化はスムーズに進んでる。しかし、本は物を個人で作るノウハウはなく、まだまだ時間がかかりそうだ。だが、電子データを持っていくと製本してくれるサービスが出来上がれば、誰もが電子データを買うようになるだろうし、コンビニとかがそのうちサービスとして始めそうな気がしている。物を個人が作れるようになる、つまり質の良い3Dプリンタが各個人が持つような未来が来れば、必然的に電子データを買えば物が手に入るようになり、ここまでくれば物と電子データの境目は非常に曖昧になるだろう。つまり、現状の物と電子データの両方を販売しているのは非常に過渡的な状態なのだ。

全てが電子データで販売できるようになれば物流のコストがなくなりコストは劇的に下がる。そうなれば、広告モデルで十分元がとれるようになるかもしれないし、定額サービスで全てがまかなえるようになるのかもしれない。もしかしたら、全ての創作物は一つのマーケット上に並び、そこが何らかの方法で稼いだ金を分配し、全てが無料で手に入れる時代が来るかもしれない。そのような未来では、今のように爆発的に稼いでいるクリエイターが1人とその他大勢という構造から、爆発的に稼ぐ人間はいないけれど、全員が満遍なく稼げるようになる時代が来るのだろう。誰もが稼げるけど誰も稼げないという世界が良いのか悪いのかわからないが、好きなことをして生きていける確率は今よりも高そうだ。なんとなく今の世界よりも好きなことをしながら誰もが生きるのに困らない程度は稼げていそうなので、物を作って生活している人間としては複雑だけどそんな未来が来ると良いなとは思う。きっと未来はそんなに暗くはない。

誰かのために何かをして安易に感謝を求めるのは健全じゃないと思う

僕は「ママがおばけになっちゃった!」を最初に読んだ時に、非常に不快でこの本を子供には読ませたくないと思った。なぜかというと、「お母さんがいなくなったらどれだけ大変か」というのを語って、子供がお母さんに対して感謝をする以外の選択肢をなくした状態の本だと思ったからだ。感謝というのは相手に強いるものではないし、感謝しか言葉がでないものを相手に渡すのは好きではない。同じような理由で「1/2成人式」というのも嫌いだ。かろうじて許せるのは結婚式の時に読む「親への手紙」ぐらいだろうか。一応、結婚式は自分のためにするものであるし、その時に読む手紙も自分が書くものであって、結果はわかりきっているであろうが自発的に動いているから許せるのだと思う。「子供は親に感謝するものだ」というのは親のエゴでしか無いということを理解せずに、簡単に感謝の言葉を聴けるであろう歌や本を渡すのはいかがなものかと思う。

ちょうどよいタイミングで朝井リョウが「安易に感謝の言葉を求める人間」というのを言語化していた。

朝井:それは夫婦とか関係なく、人と人との関係全部に言えることだと思うんですけど、例えばAKBで総選挙っていうものがあるとして、応援するときに私は「あの子のために」っていう風に自分の考えや人生を誰かに預けるってことをした途端に、人間の関係は不健康なものになると思っていて。

朝井:自分が、「あなたのことを大切に思っている気持ちを表すために、料理を作った。」ってなると、そのあと何か裏切られるようなことがあったとしても、「自分の気持ちを表現するために料理を作ったん“だから”」って。

これはすごくいい指摘だと僕は思っている。多分、「ママがおばけになっちゃった!」もそうだし、「あたしおかあさんだから」もそうだけれど、お母さんが子供の「ため」に行動しているという視点で書かれているから僕は嫌悪感を持ってしまっているんだと思う。お母さんも人間なのだから自分の楽しみもちゃんとやるし、子供の「ため」だけにやっていることなんて無い。子供のことをやっていることは自分のためだったりもして、そのへんは非常に紙一重だったりする。例えば、自分の服は適当に済ませて子供には良い服を着せたりするんだけど、それは我慢して子供に買ってあげてるわけじゃなくて、子供に可愛い服を着せたいという楽しみの一面だったりもする。自分の服を買うことよりも子供の服を買ったほうが楽しいし幸せだからやっていることなのかもしれないわけだ。なのに全てを子供の「ため」にやっている行動だと言い続けて、相手から何かの返答を求めるのは人間的だけどあまり健全な考え方ではないんだと思う。

感謝なんて強要するものじゃない。自分がやっている行動は自分がやりたいからやっていて、その動機が相手の喜びであるのかもしれない。結果として相手から感謝をもらえるのかもしれないが、相手から感謝してもらわれるために行動するとろくなことはおきない。このことを心に留めながら生きていったほうが病みにくいじゃないのかなと僕は思っている。

前フリがないシモネタは品格を疑われるものですよね

「誰か」を名指しして侮辱するならその「誰か」は起こる権利はあるだろうが、不特定多数に対して言っていることに対して侮辱していることについてセクハラだろって言い出すと世の中を生きづらくしているだけにしか思えない。例えば、酒飲んでる時に童貞の話をして盛り上がっている女性の席があるとして、その席に童貞の男が乗り込んでいって「お前らの話で俺は傷ついた。謝れ」って言ったとしても、女性は謝らないだろうし世間一般的に言えば男性側がセクハラされたとは擁護してくれないだろう。

童貞いじりとかもそうだけれど、基本的になにかをいじるネタというのはTPOが大事であって、笑いがおきるかどうかっていうのは場が非常に大事だと思っている。童貞を馬鹿にしてはいけない状況で童貞を馬鹿にすれば笑いは置きないし、貧乳を馬鹿にしてはいけない状況で貧乳を馬鹿にしても笑いはおきない。前に話した時は大爆笑をかっさらった鉄板の下ネタであったとしても、場が変われば全く笑いが起きないどころか軽蔑の目で見られることもあるだろう。だから芸人は場を作るために前フリをして、その時と同じ状況を作っているのだ。その入念な前フリが出来ない状況で、誰かをいじって死ぬほど軽蔑されて笑い話だと思ったと言っても、それを理解してもらうのは難しいだろう。

そして、インターネットは場の共有が出来ないのだ。空気の共有に非常に向いていないのだ。その場ではグループ内で共有できていたであろう前フリがある前提で書いている文章を、全く前フリを知らない人間が見て軽蔑されるのだ。そして、軽蔑を通り越して侮辱されたと怒り出す人間が出てくるんだ。はあちゅうさんの状況ってこれだと思っている。前フリをちゃんと出来ない状況でのいじりが全員に理解されるなんてほぼ不可能で、それを公衆の面前で言う人間は軽蔑されてもしょうがないのだよ。家の中で酒を飲んでいる時に童貞の話をしたら面白いだろうが、重要な会議の最中に童貞の話をしたら頭がオカシイんじゃないかと思われるだろう。TPOって大事なんだよ。

ただし、その前提を踏まえたとしても、直接的に言われたセクハラと、不特定多数に対して言っているセクハラを同一で語るのは非常に微妙だと思うんだよね。「お前が言うな」は非常にわかるけど、「お前がやってることはお前がやられたことと同じだろ」っていうのは違うと思う。嫌ならば見なければいいというのが通用する状態と、嫌でも見なければいけない状態でやられることは違う。不特定多数に対して行われるセクハラは品格が疑われるが、直接的に行うセクハラは人格を疑われる。グレーというか、限りなく白に近い黒な話と真っ黒な話を同じ土俵で離すのはちょっと違うと思っていて、限りなく白に近い黒だと思われる、不特定多数に対して発せられる、前提を共用している状況で笑い話になる「いじり」ぐらいは許容しないと世の中生きづらくなってしょうがないんじゃなかろうか。

イクメンなんて死んでも口に出さないほうが良い

イクメンなんて口が避けても言ってはいけない。あなたがやったつもりになっている家事は他の人から見れば家事になっていない可能性はいくらでもある。そもそも、イクメンというのは他人が総称する言葉であって、自分から発言する言葉ではない。妻がいない状態で言うのは100歩譲っていいだろう。しかし、妻がいる前でその言葉を発するのは地雷を自分から踏みに行っているに過ぎない。

あなたがものすごく育児に協力していたとしても言ってはいけない。掃除、洗濯、炊事等、一般的に家事と呼ばれるものをすべてやっていたとしても言ってはいけない。自分が自由になる時間全てを子供のために注いていだとしても言ってはいけない。どれだけ努力をしてあなたが育児をしていたとしても、それを評価するのは所詮他人だ。あなたがやった全ての行いはもしかしたら全て妻の邪魔をしているのかもしれない。洗濯物のたたみ方が違うのにストレスを感じているが、せっかくやってくれているから文句を言わないでいてくれるのかもしれない。何が綺麗で何が汚いか、どういう家にしたいかは人によって違い、あなたが全てをやったとしてもそれは妻のやりたかったことを阻害している可能性はある。それを忘れてはいけない。

だからといって、何もやらなくていいという話ではない。自分がやれることはやるべきだし、やったほしいだろうなと思うことはやるべきだ。それは間違いない。しかし、それをひけらかすのは良くないということだ。あなたがやったことはひけらかして自慢できることではないかもしれないということをつねに頭においておいたほうが良い。一生懸命いろんなことをやったとしても、それは卓上の醤油を取ってくれたぐらいにしか相手は思っていないかもしれない。そこはどれだけ頑張っても相手にしかわからないことなのだ。笑顔でありがとうと言ってくれたかもしれないが、その裏にはもっとしっかりやれよ、この糞ボケが。という言葉が含まれているのかもしれない。そこを決して忘れてはいけない。

そう。自分がやっている育児は「当たり前」なのだ。それは他の人間もやっていることで自分がやっているのをすごいと思ってはいけないのだ。そこを念頭に置いていれば自然と「自分はイクメンだ」という言葉など出てこない。「自分はイクメンだ」などという世迷言が口に出てしまっているのであればよく考えるべきだ。本当に自分がやっていることを相手は全て感謝してくれているのかということを。妻の口から「いつも育児を手伝ってくれてありがとう」と言われるのを待ち続けながら育児に参加させてもらっているという気持ちを忘れずに生きていく。これが現代の夫に対して求められている考えだと思う。


自分は「中の上」だと言っている理由

まず、自分が上位グループに属していると考えてみる。そうすると、性格上色んな人を見下してしまいそうな気がしている。今までの経験上、人を見下して会話をすると大抵良いことが起きない。ただでさえ人を見下している様に取られることが多い方なのでこれは良くない。自分が上にいすぎると考えると努力する必然性も感じることができないのがあまり良くない。なので、自分が上位グループに存在していると認識するのは意識的に避けている。

次に自分が下位グループに属していると考えてみる。そうなると努力する必然性も出てくる。しかし、下位グループにいるということは、足を引っ張っているということと変わらない。性格上、足を引っ張っているというのはあまり好きではないので努力をするのだろうが、どこまで努力をすれば下位グループから脱却できたのかという保証は何もない。努力し続けても何も結果が出なかった場合、自分の無能感に絶望し精神的にあまり良くない。わざわざ好き好んで挫折感を感じたくもないのでこれも避けている。

じゃあ、自分が中間だと考えてみるとどうだろう。これは結構いい線いっている。周りを見渡せば自分より出来る人もいれば出来ない人もいる。大抵どんなグループに属しても指標を変えれば出来ることと出来ないことが別れる。何かで負けていても別のところで勝っていれば自尊心を保てるし、上位グループに進むためにも努力する必然性はある。けれど、努力しなかったとしても真ん中にいるのだからしないならしくても良い。ただ、自分が中間だと考えると、自分ができることを出来ない人間というのは必然的に下位グループに属するということになる。自分ができることを人が当たり前にできると考えるのは危険なのでそう考えるようにはなりたくない。

こう考えていくと、自分は中の上にいると考えるのが精神的にも他の人に接するときにもちょうどいいバランスなんだと思っている。自分より出来ない人には優しく出来るし、自分よりできる人には強いリスペクトを持てる。適度に努力をしなければなず、努力しなくて精神的に追い詰められることもない。世の中絶対値で評価できることなど、なにかのテストぐらいで他の人間力や才能は感覚値でしかなく自分が勝手に判断するしか無い。だから適当に自分が居心地が良い場所を探して勝手に言ってれば良いんだろうと思う。

自分の「あたりまえ」を他人はあまりやってくれない

僕は何かしらの契約をする時に、やりとりをメールでお願いしている。理由はエビデンスを残すためだ。言った言わないを言い出すのは非常に不毛だし、どういう予定だったのかを見返すにもメールのほうが便利だ。職業柄メール文化に慣れているのでちょっとした質問ならすぐに返ってくるだろうと思ってメールするのだけれど、返答がすぐに帰ってくる人間は非常に少ない。悪いときだと「あなたのお名前はなんといいますか?」ぐらいの質問をしても丸2日待たされることもある。営業という職業柄、電話でのやり取りに慣れているというのもあるのだろうが、それにしても常識的に考えて返答が遅すぎるのではないかと思ってしまう。

また別のケースだと、メールで連絡しても電話で返ってくる時がある。堀江さんではないが、電話してくるなよと思いながらも出て話をした後に、「今話した内容を忘れると嫌なのでメールで送っておいてください」と言うのだけれどこれが守られることがほぼ無い。向こうとしても、客と言った言わないで揉める要因を減らすという利点があるはずなのにやってくれない。1日ぐらいたってから、やんわりと指摘すると、さも今作っていましたと言わんばかりのメールが返答されてしばらくしてからメールが来る。絶対忘れていたか、やりたくないから有耶無耶にしようとしていただろうと内心は思うわけだけれどそんなことは言わない。

僕の中で、連絡が来たら連絡を返すというのは「あたりまえ」だし、返答は早ければ早いほど相手の心象は良くなるだろうから、もし僕が営業だったら連絡をすぐにかえすというのは必須でやらなければならないと考えるだろう。しかしこの「あたりまえ」と思っていることをやってくる営業はかなり少ない。というか今まで接した営業は誰ひとりとしていない。これは僕の「あたりまえ」のレベルが高いからなのか、それとも「あたりまえ」を出来る人間が世の中には少ないのか非常に難しい。

別に結論はないわけだけど、相手が書いてきたメールの意味がわからなかったので「こういう意味ですか?」と質問したメールの返答が1日たっても帰ってこないのでイライラしてこの文章を書いている。自分の「あたりまえ」を人に押し付けるのは良くないと思うが何か調べ物をするわけでもなく、自分が作る出した文章の意味を問うているのに返答にそれだけ時間がかかる意味がわからない。「はい」か「いいえ」だけでいいのにどこにそんな時間がかかるのだろう。もしかしたら放置プレイをされているのかもしれないが、相手はまだあっていないためきったないおっさんの可能性も否定できない。というかその可能性のほうが高いのだろう。僕は少なからず残っているであろう、いまやり取りしている相手が石原さとみという可能性を想像しながら放置プレイに耐えてみようと思う。

周りを説得するより行動したほうが何かと捗る

何か素晴らしいアイデアをひらめいて、これは素晴らしいと他の人に布教してもやってくれなかったとしよう。このアイデアがいかに素晴らしいかが理解できていないのかと一生懸命説明したとして、それでも他の人はやってくれない。こんなに素晴らしいアイデアをやってくれないなんておかしい。どう説明すればいいんだろうとあなたは頭を悩ませるかも知れないし、なぜ理解してくれないんだと腹をたてるかもしれない。そういった時に一つだけ特効薬があるとしたらやってみることだと思う。考えるより行動したほうが早い。

例えば出社してすぐにラジオ体操をすると作業効率があがるという話があったとする。朝に運動をすることで頭が活性化して作業効率が10%上がると仮定する。それを知ったあなたは始業前にみんなでラジオ体操をすることを提案して、ラジオ体操にはこれだけよい効果があると一生懸命説明する。しかし、みんなの反応は芳しくない。この時に一番いいのはあなたが一人でラジオ体操をすることだ。ラジオ体操が素晴らしいのであれば自分ひとりでもやればいいし、それを見たりそれをやっているあなたのパフォーマンスが上がれば自ずとみんなラジオ体操をするようになるだろう。もしみんながやらないのであれば、自分にとっては素晴らしいのかもしれないがみんなにとっては素晴らしくないのだろう。あなたがラジオ体操をすることでパフォーマンスが上がったかもしれないが、みんなはラジオ体操をやったことによってパフォーマンスが下がると判断したのかもしれない。自分にとって素晴らしいからと言って他の人にそれを強要するというのは、他の人があなたがやっていることをやめさせるのと同じことだということを理解すべきだ。

自分が素晴らしいアイデアをひらめいた時はとりあえずやってみるのがいいと思う。もしそのアイデアが良ければ他の人に広がるし、広がらなかったとしても自分がそれをすることで何らかのパフォーマンスがあるのならやらないよりやったほうが良い。なにがしかの資金が必要なわけでもなく、行動するだけで出来るアイデアであればガンガンやればいいと思う。もしそこで業務中に無駄なことをするなと文句を言ってくるのであれば、その時に何故やっているのかを説明すれば良い。その説明で相手が納得せずに無理やりそれをやめさせようとするのであればそれは環境が悪いので環境を変えるたほうが早い。

ただしこれは他の人に迷惑をかけないというのが大前提としてある。ラジオ体操を大音量で流されたら他の人の作業に支障が出るだろう。その時はあなたは別の場所でそのアイデアを実行するべきだ。そこを曲げずにラジオ体操の音を理解できないあいつが悪いと開き直るのは筋違いだ。あなたにとっての素晴らしいアイデアというのは他の人は既に試した結果やっていないのかもしれないし、やる権利があるようにやらない権利もあることを理解したほうが良いのだろう。

Googleがクソなのは検索じゃなくて広告の方だと思う

検索が無能だと言ってるけど、検索だけじゃなくて広告が無能。見られた数だけで広告料を払っているのが無能だと思う。本来広告は載る場所もかなり重要なはずで、デマばっかり流しているところに広告がでるということはその広告を出している物自体もデマに見えてくる。だから、テレビは企業イメージがあっている番組に対してスポンサーがついてお金を払って広告してもらう。しかし、今のインターネットは広告主はどこに載るのかはわからない。クリック率が良くなるであろうサイトに乗せているというだけで、それがポジティブであるかネガティブであるかは関係ない。登録時には一応審査があるが、審査が通ってしまえばユーザからの通報がなければ広告は出続けるしお金は払われ続ける。PVとクリック率でサイトを判断し、それがネガティブなPVであろうがポジティブなPVであろうが同じPVとして計算し、同じようにお金が払われる。ここが現状のインターネットが腐っている原因だと思う。

キュレーションだとかパクリだとかなぜそれをやるのかというとPVが集まればお金が儲かるからというだけだ。個人でもアフィリエイトで儲かるから読んでもいない本を紹介するしやってもいないゲームを紹介する。そこがクリックされてお金が儲かる仕組みがあるのだからしょうがない。この現状を変えるにはそもそもクソなサイトを作ったらお金が儲からないような仕組みを作るしか無い。例えばパクリでPVを稼いでお金を払っていたのであれば、そのパクリが発覚した時点でその払ったお金を返答させる仕組みを作るとかやりようはいくらでもある。

それをやらないのはやらないほうがGoogleも儲かるからだ。お金が儲かるならなにをやってもいいという時点でクソなんだけど、現状の仕組みがそうだからしょうがない。広告主がGoogleに出稿しなくなればいいんだろうけどそんなことも起こらないだろうし、クソを撒き散らしてクソに引っかかったカスが見に来てることにも気づかずにせっせとお金を払って広告を出し続ける。若い人は検索なんてしないとか言ってるからこの仕組はだんだんと壊れていくんだろう。今のところ、カスな広告を出すのが一番儲かるからGoogleも本気を出さないわけで僕ら一般市民が出来ることはカスみたいなサイトは表示しないしクリックしないことぐらいだと思う。

ITの業界で働きだして15年ぐらいたちました

昨日の誕生日で35歳を迎えました。せっかくの誕生日を風邪を引いてしまうという悲しいスタートを切ったわけですが、会社もお休みを頂いてせっかく時間もあることですし日記でも書こうと思います。

35歳というとIT業界では「35歳定年説」がまことしやかにささやかれていて、働き出した頃には戦々恐々としていましたが、いざ35歳になってみるとコードが書けなくなったわけでもないし、頭が回らなくなった気もせずまだまだコードを書いて生きていける気がしています。「35歳定年説」はSier業界で35歳になったら上流設計をして手を動かすのは若いものに任せないとお金を稼げないから言われていた話であって、最近のIT業界の記事とかを見ていると僕よりも年上でも現役バリバリのプログラマーもいっぱいいますし、会社も35歳以上はマネージャじゃないと給料が上る道がないという感じではなく他の道も示してくれている会社が多くなってきた気がします。今働いている会社も同様にプログラマーとしての道を示そうとしてくれているのでありがたい限りですし、これからさきもまだまだ若いもんには負けんぞという気概でプログラムをガシガシと組み続けていこうと思います。

20歳からいわゆるIT業界で働きだして、インフラエンジニアと言いながらカスタマーエンジニアさながらLANケーブルを作って自分で構築したファイルサーバをサーバ室にもっていって設置したり、C言語で組込系として携帯電話の開発に携わりパケットが流れることに一喜一憂したり、趣味でWebサービスを立ち上げてみて人が来ない寂しさを味わったりと下回りから上回りまで一通り触ってきました。色々なレイヤのものづくりを経験しましたが、やっぱりどのレイヤでもものづくりは楽しくて、自分が作ったものを人が触ってくれて楽しんでくれているのを見るのは下回りだろうが上回りだろうが変わらずいいものでして、これからも続けていきたいなと思う次第です。

35歳にもなると色々な引き出しが増えてきて、昔に比べると色々なことが出来るし求められることに対してすぐに返答できるようになりました。しかし、引き出しが増えるというのはパターンが増えるということで、パターンが増えると求められるものに対して似ているパターンを考えてついつい自分の引き出しの中から答えを探してしまい、結果として古臭い答えが出てきがちだと思います。どれだけ新しいインプットをしていても、自分が成功した引き出しは常に更新していかないとすぐに老害と呼ばれる人間になってしまいそうな気がしてきています。何かを求められたとき、何かの問題点の解決法を探す時に自分の引き出しの中でそれっぽいものが見つかったとしても、ちゃんと今のトレンドにそっているかを一旦立ち止まって考えることを肝に銘じておきたいものです。

一般的に30歳から40歳ぐらいが会社にとっての稼ぎ時だといわれていて、僕も丁度その中間になったことになります。40歳から先は段々と若い子の稼ぎに乗っかりながら生きていくことになるとか言われてますが、定年もだんだんと上がっていきますし僕が定年を迎えることには30歳から50歳ぐらいまでは稼ぎどきだとか言われているのかもしれません。僕が40際になったときにはまだまだ稼ぎどきだねとか言われるかもしれませんが、転職すると考えると今までは未来を買ってもらって転職していたものがこれからは過去を買ってもらって転職していくようになっていくのでしょう。これまでの自分が経験したことは変えることができないので、自分の価値を高めるためにやっていく戦略というのも丁度折り返しで変わっていかなければならないのかもしれません。戦略と言っても結局は自分を磨き続けるしか無いんでしょうけどね。

エンジニアとしては自分を代表するような何かを作ってみたいという願望は常々あり、所属している組織で判断されるより何を作ったかで認識される人間のほうがかっこいいよなと思うわけで、何か一つぐらいは世に自分を知らしめる何かを作りたいと考えて色々なことに手を出してきて生きてきました。結果として何かひらめいたら自分で作れるだけの技術は持つことはできたと思っているので、後はアイデアとやる気次第なんでしょうが、歳と共に野望も少しづつ削られてきている気がするのが寂しいところです。やれることの幅と作れるものの幅は広がっているのに気力と体はついてこないとはどういうことなんでしょうか。これが歳というものなのでしょうか。昔、細木数子先生の六星占術のもととなったと言われる占いを知り合いが勉強していてその人に占ってもらったことがあるんですが、僕は大器晩成で50台後半で大成するらしいのでそのころになると気力が増えてくるのかもしれないので気長にまとうと思います。

つらつらと風邪を引いて回らない頭でIT業界で働いている35歳として思うことを書いてみたわけですが、過去やってきたことが今に繋がってるんだなとひしひしと感じます。ぽっと今の自分が湧いたわけではなく、色々なことを感じながら学んできた結果として今の自分がいるように、これから先を良くしていきたいのであれば今を積み重ねて生きていくしか無いのでしょう。見城さんではないですが、今この瞬間が死に一番遠い時間であるように、今この瞬間が未来を一番変えることが出来る自分なんだろうと考えながら日々生きていくしか無いということが段々と身にしみてわかってきている気がします。

まぁ、35歳で結婚して子供もできている現状を作ることができた自分というのは今思うと出来すぎだと感じますが、15歳ぐらいの人生設計を考えると全然だったような気がします。それは自分というものを知ることができたから現状で満足できているのか、それとも15歳から妥協し続けた結果として今の自分で満足できているのかは今の僕の年齢ではまだわかりません。ただ、過去の積み重ねの結果として出来上がった自分を否定せずに満足できている現状は精神的には健全なんでしょう。これから何歳まで生きるのかわかりませんが、「現状に満足せず精進する」というような高尚な考えではなく、過去を振り返った時に「自分の能力でここに入れれば上出来だよな」と思えるぐらいの努力を「今」という時間にやっていこうと思いますのでよろしくお願いいたします。

話が通じないから武装して威圧するというのは意味が無いのかもしれないという話

最近、北朝鮮からミサイルがバンバン飛んで来るっていう話の流れで、松本さんが一発殴ってやらないといけないっていう言葉を発した後にピーコさんに「おすぎさんからバンバン殴られたら殴り返すでしょ?」って言われた後、ピーコさんが「戦争と人の喧嘩を一緒にしちゃダメよ」っていう言葉を空気が変わるぐらいの重さを出しながら言っててたしかになと思った。

SEALDSをバカにする目的で上がっているであろう動画で以下の動画がある。

殴ってでも取りに行くけどどうするの?って煽ってるけど、これって国と国との問題を個人レベルに落とし込んで極論として自分のフィールドに持ち込もうとしていて、詐欺師が用いる手段と同じような気がする。個人レベルだと話し合いで解決しようとして殴ってでも取りに来られたら警察呼ぶし、警察がいなかったとしても人ごみで殴ってでも取ろうとしている人がいたら普通に周りの人は止めると思う。で、結局殴って奪いとったものは警察だったり周りの人だったりの仲裁を元に奪い取られた人の手元に戻って、殴った人は殴ったっていう結果だけ残るので、あいつは暴力してまでも人のものを取ろうとするやつだって言う悪い評判だけが残ることになる。個人でもこうなるのに国レベルだともっと色々なしがらみがあってなかなか手を出せないのが普通なんだろう。

いま日本が武装して自衛権を持つようにすると言っている。それは「殴られたら殴り返す」というアピールをすることなんだろう。あいつから殴られたらひどいことになりそうだっていうことをアピールすることで殴られないようにするという自衛方法なんだろうが、いくら強そうでもこいつは殴ってこないって言うことがバレてしまえばいくら強そうでもあまり意味なくなる。あいつはウドの大木だとバカにされ武装したぶんの費用だけが無駄になることになるんじゃなかろうか。自衛のためとは言え殴ってしまうと国単位で見るとたんこぶぐらいかもしれないが、個人単位で言えば多くの人が死ぬことになるんだろう。僕はそんな世界は来てほしくはない。

じゃあどうすればいいのかというと、周りの人に例えればチクリ魔になるのが一番いいんじゃなかろうか。何かされたら全世界に「こいつこんなひどいことしてまっせ」と事ある毎に文句を言い続ければちょっかいを出してこなくなるんじゃなかろうか。先生に言いつけまくるやつは格好悪いけど生存するための策略としては悪くないのかもしれない。それは話し合いで解決するというより言葉で殴り合うということになるんだろうが、直接ドンパチやるよりも建設的で平和的だと思う。