性善説でプロジェクトを回す難しさ

個人的にもやもやしている部分が多かったのだが、この文章を読んで少しスッキリしたので書く。

社員は自分が裁量を持ち心理安全性が高い場所を好む。そして、人間は怠惰な生き物なので一生懸命やっているつもりでもコンフォートゾーンに流れていく。自分は一生懸命やっているはずだ。自分がやっていることは仕事の効率を上げるために必要なことだ。と自分の行動を正当化しつつ、仕事がうまく行かなかったらスケジュールの厳しさを立てにして自分の責任を低く設定し楽に仕事をしようとする。それは仕事をする上でだらけている状態であり経営者としてはやっていることの責任の重さを突きつけて、そんなだらけた仕事の仕方をするのではなく真面目に目標に向かって進んでいこうじゃないかと旗を掲げ社員をコンフォートゾーンからラーニングゾーンに持っていく必要がある。

しかしそのやり方を一歩間違うと、心理的安全性が下がっていく。社員は経営者が自分のことを信用していないのではないかと怯えだし、自分は一生懸命やっているのに理解してもらえない辛さを嘆き不安ゾーンへと流れていってしまう。結局人は自分が可愛く、人が自分のことを攻め立てたとき自分に都合が良いストーリーを自分の中で作り上げそれを盾に経営者を攻め立てるのだろう。引き締めれば心理的安全性が下がるが、引き締めなければ責任感が少しづつ減っていきなあなあになる。うまいことバランスをとりながらラーニングゾーンに持っていけるように声を掛けるしかないのかもしれない。

僕は常々、仕事というものは成果で判断されるべきで、経過を元に判断を歪めるべきではないと思っている。仕事中にタバコを吸っていようが、音楽を聞いていようが、それはその人が一番パフォーマンスが出せると考えるのであればそこに他人が文句をつけるべきではなく、文句をつけるべきは結果であると考えている。あなたには100の仕事の結果を求めていましたが、結果として10しかできていないので、100の仕事結果が出してください。というような、成果が足りないからなんとかしてほしいと文句を言うべきで、仕事の仕方については一切関与しないほうがうまくいくのではないかと考えていた。

しかし、これは性善説ですべての人間は絶対的に仕事に対して真摯に向き合いすべての行動は仕事の生産性に直結していると仮定した場合の話である。実際は人間は怠惰だし自分に甘いしすぐにサボる。成果が定量的に図れる仕事であればその人間がどれだけ真面目にやっているかはわかりやすいかもしれないが、定量的に図れない仕事ではどれだけその人間が真摯にやっているのかというのはやっている本人にしかわからない。わからないからこそ結果のみで判断して過程は社員に任せてしまい、あなたを信頼していることを表現しつつ求めている結果が足りないからどうにかしたいという話をしたほうがうまくいくのではないかというのが僕の考えだった。しかし、適切なタイミングでコンフォートゾーンへと落ちないように声をかけていくというのも良い手なのかもしれないし、実際に仕事としての成果が高いレベルで保てるのはコンフォートゾーンへと落ちないように以下に考慮するか?のほうが重要なのかもしれない。