誰かのために何かをして安易に感謝を求めるのは健全じゃないと思う

僕は「ママがおばけになっちゃった!」を最初に読んだ時に、非常に不快でこの本を子供には読ませたくないと思った。なぜかというと、「お母さんがいなくなったらどれだけ大変か」というのを語って、子供がお母さんに対して感謝をする以外の選択肢をなくした状態の本だと思ったからだ。感謝というのは相手に強いるものではないし、感謝しか言葉がでないものを相手に渡すのは好きではない。同じような理由で「1/2成人式」というのも嫌いだ。かろうじて許せるのは結婚式の時に読む「親への手紙」ぐらいだろうか。一応、結婚式は自分のためにするものであるし、その時に読む手紙も自分が書くものであって、結果はわかりきっているであろうが自発的に動いているから許せるのだと思う。「子供は親に感謝するものだ」というのは親のエゴでしか無いということを理解せずに、簡単に感謝の言葉を聴けるであろう歌や本を渡すのはいかがなものかと思う。

ちょうどよいタイミングで朝井リョウが「安易に感謝の言葉を求める人間」というのを言語化していた。

朝井:それは夫婦とか関係なく、人と人との関係全部に言えることだと思うんですけど、例えばAKBで総選挙っていうものがあるとして、応援するときに私は「あの子のために」っていう風に自分の考えや人生を誰かに預けるってことをした途端に、人間の関係は不健康なものになると思っていて。

朝井:自分が、「あなたのことを大切に思っている気持ちを表すために、料理を作った。」ってなると、そのあと何か裏切られるようなことがあったとしても、「自分の気持ちを表現するために料理を作ったん“だから”」って。

これはすごくいい指摘だと僕は思っている。多分、「ママがおばけになっちゃった!」もそうだし、「あたしおかあさんだから」もそうだけれど、お母さんが子供の「ため」に行動しているという視点で書かれているから僕は嫌悪感を持ってしまっているんだと思う。お母さんも人間なのだから自分の楽しみもちゃんとやるし、子供の「ため」だけにやっていることなんて無い。子供のことをやっていることは自分のためだったりもして、そのへんは非常に紙一重だったりする。例えば、自分の服は適当に済ませて子供には良い服を着せたりするんだけど、それは我慢して子供に買ってあげてるわけじゃなくて、子供に可愛い服を着せたいという楽しみの一面だったりもする。自分の服を買うことよりも子供の服を買ったほうが楽しいし幸せだからやっていることなのかもしれないわけだ。なのに全てを子供の「ため」にやっている行動だと言い続けて、相手から何かの返答を求めるのは人間的だけどあまり健全な考え方ではないんだと思う。

感謝なんて強要するものじゃない。自分がやっている行動は自分がやりたいからやっていて、その動機が相手の喜びであるのかもしれない。結果として相手から感謝をもらえるのかもしれないが、相手から感謝してもらわれるために行動するとろくなことはおきない。このことを心に留めながら生きていったほうが病みにくいじゃないのかなと僕は思っている。