売るために書かれたミステリー #透明カメレオン

読んだ。あまり好みではなかった

あらすじをざっと書くと、声が良くて顔が悪いラジオDJと行きつけのバーの人たちが突如現れた女に振り回される話になる。突如現れた女は主人公がとっさについてしまった嘘を弱みとして色々な不可解なことをやっていく。振り回されながらも女に恋心をいだいていく主人公という構成が少女漫画っぽくて、最近の時流を読んでいる作品に仕上げているんだろうなと思った。最後に突如として出てくる感動させるためだけの話なんかもふくめて最近よくある話だなと思う。

ミステリーをミステリーとして書いている作品で、伏線を伏線らしく入れていき、それを隠すためなのか長々と文章を書き連ねている印象を受ける。コミカルでユーモラスな人物像が好きな人には非常にハマる作品だと思うが、僕にはあまりはまらなかった。読みたい人は読めば良いのかなと思うが、道尾秀介の作品としては僕はあまりおすすめしない。

物質とデータが混在する現代は稀有な時代なのだろう

物を作ってる側からすると「なんでも無料でもらえると思うなんてけしからん」と脊髄反射してしまいがちだけど、これは過渡期だからそう考えてしまうだけかもしれない。そもそも電子書籍や電子ゲームなど仮想的にしか存在しない者に対して、物質と同じ値段を付けて販売するというのはどう考えてもおかしい。コンテンツを作るためには同じぐらいのお金がかかると言っているが、どう考えても電子データのほうがコストは安い。流通コストはなくなるし、保管するための倉庫もいらないし、販売するためのコストもいらないし、印刷するためのコストもいらないのだから、物質と同じ値段でしか作れないと言われても眉唾だと考えてしまいがちだ。

しかし、そんな簡単な話でもない。今は過渡期だから物質の販売と電子的なデータの販売の両方を行っているところがほとんどだ。なので、物を作るのは0に出来ているわけではなくて、物を作って販売するまでのルートは残しておく必要がある。0から1を作るコストは非常に大きいが、1を100にするのは既に出来上がっているルートに流れる量が変わるだけだからそこまで変わらないのだろう。ということで、両方が流通している現状のコストはあまり変わっておらず、電子媒体だろうが物を販売していようが同じ値段で販売しないと採算が取れないのだろう。そう。中間業者がまるまる搾取してウッハウハとかいう単純な話ではきっとないのだ。

すべての物は電子化していくことはほぼ間違いない。本であれ音楽であれ物質はなくなりデータが重要になる。音楽などは昔からデータを物に転送するのを個人でやっていたので電子化はスムーズに進んでる。しかし、本は物を個人で作るノウハウはなく、まだまだ時間がかかりそうだ。だが、電子データを持っていくと製本してくれるサービスが出来上がれば、誰もが電子データを買うようになるだろうし、コンビニとかがそのうちサービスとして始めそうな気がしている。物を個人が作れるようになる、つまり質の良い3Dプリンタが各個人が持つような未来が来れば、必然的に電子データを買えば物が手に入るようになり、ここまでくれば物と電子データの境目は非常に曖昧になるだろう。つまり、現状の物と電子データの両方を販売しているのは非常に過渡的な状態なのだ。

全てが電子データで販売できるようになれば物流のコストがなくなりコストは劇的に下がる。そうなれば、広告モデルで十分元がとれるようになるかもしれないし、定額サービスで全てがまかなえるようになるのかもしれない。もしかしたら、全ての創作物は一つのマーケット上に並び、そこが何らかの方法で稼いだ金を分配し、全てが無料で手に入れる時代が来るかもしれない。そのような未来では、今のように爆発的に稼いでいるクリエイターが1人とその他大勢という構造から、爆発的に稼ぐ人間はいないけれど、全員が満遍なく稼げるようになる時代が来るのだろう。誰もが稼げるけど誰も稼げないという世界が良いのか悪いのかわからないが、好きなことをして生きていける確率は今よりも高そうだ。なんとなく今の世界よりも好きなことをしながら誰もが生きるのに困らない程度は稼げていそうなので、物を作って生活している人間としては複雑だけどそんな未来が来ると良いなとは思う。きっと未来はそんなに暗くはない。

誰かのために何かをして安易に感謝を求めるのは健全じゃないと思う

僕は「ママがおばけになっちゃった!」を最初に読んだ時に、非常に不快でこの本を子供には読ませたくないと思った。なぜかというと、「お母さんがいなくなったらどれだけ大変か」というのを語って、子供がお母さんに対して感謝をする以外の選択肢をなくした状態の本だと思ったからだ。感謝というのは相手に強いるものではないし、感謝しか言葉がでないものを相手に渡すのは好きではない。同じような理由で「1/2成人式」というのも嫌いだ。かろうじて許せるのは結婚式の時に読む「親への手紙」ぐらいだろうか。一応、結婚式は自分のためにするものであるし、その時に読む手紙も自分が書くものであって、結果はわかりきっているであろうが自発的に動いているから許せるのだと思う。「子供は親に感謝するものだ」というのは親のエゴでしか無いということを理解せずに、簡単に感謝の言葉を聴けるであろう歌や本を渡すのはいかがなものかと思う。

ちょうどよいタイミングで朝井リョウが「安易に感謝の言葉を求める人間」というのを言語化していた。

朝井:それは夫婦とか関係なく、人と人との関係全部に言えることだと思うんですけど、例えばAKBで総選挙っていうものがあるとして、応援するときに私は「あの子のために」っていう風に自分の考えや人生を誰かに預けるってことをした途端に、人間の関係は不健康なものになると思っていて。

朝井:自分が、「あなたのことを大切に思っている気持ちを表すために、料理を作った。」ってなると、そのあと何か裏切られるようなことがあったとしても、「自分の気持ちを表現するために料理を作ったん“だから”」って。

これはすごくいい指摘だと僕は思っている。多分、「ママがおばけになっちゃった!」もそうだし、「あたしおかあさんだから」もそうだけれど、お母さんが子供の「ため」に行動しているという視点で書かれているから僕は嫌悪感を持ってしまっているんだと思う。お母さんも人間なのだから自分の楽しみもちゃんとやるし、子供の「ため」だけにやっていることなんて無い。子供のことをやっていることは自分のためだったりもして、そのへんは非常に紙一重だったりする。例えば、自分の服は適当に済ませて子供には良い服を着せたりするんだけど、それは我慢して子供に買ってあげてるわけじゃなくて、子供に可愛い服を着せたいという楽しみの一面だったりもする。自分の服を買うことよりも子供の服を買ったほうが楽しいし幸せだからやっていることなのかもしれないわけだ。なのに全てを子供の「ため」にやっている行動だと言い続けて、相手から何かの返答を求めるのは人間的だけどあまり健全な考え方ではないんだと思う。

感謝なんて強要するものじゃない。自分がやっている行動は自分がやりたいからやっていて、その動機が相手の喜びであるのかもしれない。結果として相手から感謝をもらえるのかもしれないが、相手から感謝してもらわれるために行動するとろくなことはおきない。このことを心に留めながら生きていったほうが病みにくいじゃないのかなと僕は思っている。