前フリがないシモネタは品格を疑われるものですよね

「誰か」を名指しして侮辱するならその「誰か」は起こる権利はあるだろうが、不特定多数に対して言っていることに対して侮辱していることについてセクハラだろって言い出すと世の中を生きづらくしているだけにしか思えない。例えば、酒飲んでる時に童貞の話をして盛り上がっている女性の席があるとして、その席に童貞の男が乗り込んでいって「お前らの話で俺は傷ついた。謝れ」って言ったとしても、女性は謝らないだろうし世間一般的に言えば男性側がセクハラされたとは擁護してくれないだろう。

童貞いじりとかもそうだけれど、基本的になにかをいじるネタというのはTPOが大事であって、笑いがおきるかどうかっていうのは場が非常に大事だと思っている。童貞を馬鹿にしてはいけない状況で童貞を馬鹿にすれば笑いは置きないし、貧乳を馬鹿にしてはいけない状況で貧乳を馬鹿にしても笑いはおきない。前に話した時は大爆笑をかっさらった鉄板の下ネタであったとしても、場が変われば全く笑いが起きないどころか軽蔑の目で見られることもあるだろう。だから芸人は場を作るために前フリをして、その時と同じ状況を作っているのだ。その入念な前フリが出来ない状況で、誰かをいじって死ぬほど軽蔑されて笑い話だと思ったと言っても、それを理解してもらうのは難しいだろう。

そして、インターネットは場の共有が出来ないのだ。空気の共有に非常に向いていないのだ。その場ではグループ内で共有できていたであろう前フリがある前提で書いている文章を、全く前フリを知らない人間が見て軽蔑されるのだ。そして、軽蔑を通り越して侮辱されたと怒り出す人間が出てくるんだ。はあちゅうさんの状況ってこれだと思っている。前フリをちゃんと出来ない状況でのいじりが全員に理解されるなんてほぼ不可能で、それを公衆の面前で言う人間は軽蔑されてもしょうがないのだよ。家の中で酒を飲んでいる時に童貞の話をしたら面白いだろうが、重要な会議の最中に童貞の話をしたら頭がオカシイんじゃないかと思われるだろう。TPOって大事なんだよ。

ただし、その前提を踏まえたとしても、直接的に言われたセクハラと、不特定多数に対して言っているセクハラを同一で語るのは非常に微妙だと思うんだよね。「お前が言うな」は非常にわかるけど、「お前がやってることはお前がやられたことと同じだろ」っていうのは違うと思う。嫌ならば見なければいいというのが通用する状態と、嫌でも見なければいけない状態でやられることは違う。不特定多数に対して行われるセクハラは品格が疑われるが、直接的に行うセクハラは人格を疑われる。グレーというか、限りなく白に近い黒な話と真っ黒な話を同じ土俵で離すのはちょっと違うと思っていて、限りなく白に近い黒だと思われる、不特定多数に対して発せられる、前提を共用している状況で笑い話になる「いじり」ぐらいは許容しないと世の中生きづらくなってしょうがないんじゃなかろうか。

セキュリティの入門本なのだろうか #スマホを落としただけなのに

読んだ。面白かった。

ざっくりとあらすじを書くと彼氏が落としたスマホを連続殺人犯が拾ってしまい、そのせいで彼女が狙われてしまう話となる。犯人はあの手この手で彼女の情報を取得していくわけだけれど、その手口が非常に具体的でよく調べてるなと思った。やろうと思えば出来るだろうなと思われることが非常に多くて、SNSを使用したソーシャルハッキングとかよく調べてるなという印象。ただ、そこが非常に上手く出来ているせいか、内容よりもそちらに目が向いてしまったのが悲しい。職業柄、プログラミングやハッキング手法などが出てくると、それが実現可能なのかを頭で考えてしまうのだが、そんなことを考えない人であれば楽しく読めるんじゃなかろうか。

しかし、最後に出てくる裏設定は必要だったのか?その感動を作るためだけに出てくる設定がかなり気になった。突如出てきて、「ほら、いい話でしょ」と言われても僕は全然感動できなかった。結末が難しすぎてしょうがなく入れたのかもしれないが、よくわからなかった。全体的に話の流れもわかりやすくテンポも良いので読みやすいと思うので、SNSの怖さ、ハッキングの怖さ、インターネットの怖さをわかりたい人は読んでみると良いと思う。話の内容は特にこれといって、だが勉強のために読むのは良いと思う。

イクメンなんて死んでも口に出さないほうが良い

イクメンなんて口が避けても言ってはいけない。あなたがやったつもりになっている家事は他の人から見れば家事になっていない可能性はいくらでもある。そもそも、イクメンというのは他人が総称する言葉であって、自分から発言する言葉ではない。妻がいない状態で言うのは100歩譲っていいだろう。しかし、妻がいる前でその言葉を発するのは地雷を自分から踏みに行っているに過ぎない。

あなたがものすごく育児に協力していたとしても言ってはいけない。掃除、洗濯、炊事等、一般的に家事と呼ばれるものをすべてやっていたとしても言ってはいけない。自分が自由になる時間全てを子供のために注いていだとしても言ってはいけない。どれだけ努力をしてあなたが育児をしていたとしても、それを評価するのは所詮他人だ。あなたがやった全ての行いはもしかしたら全て妻の邪魔をしているのかもしれない。洗濯物のたたみ方が違うのにストレスを感じているが、せっかくやってくれているから文句を言わないでいてくれるのかもしれない。何が綺麗で何が汚いか、どういう家にしたいかは人によって違い、あなたが全てをやったとしてもそれは妻のやりたかったことを阻害している可能性はある。それを忘れてはいけない。

だからといって、何もやらなくていいという話ではない。自分がやれることはやるべきだし、やったほしいだろうなと思うことはやるべきだ。それは間違いない。しかし、それをひけらかすのは良くないということだ。あなたがやったことはひけらかして自慢できることではないかもしれないということをつねに頭においておいたほうが良い。一生懸命いろんなことをやったとしても、それは卓上の醤油を取ってくれたぐらいにしか相手は思っていないかもしれない。そこはどれだけ頑張っても相手にしかわからないことなのだ。笑顔でありがとうと言ってくれたかもしれないが、その裏にはもっとしっかりやれよ、この糞ボケが。という言葉が含まれているのかもしれない。そこを決して忘れてはいけない。

そう。自分がやっている育児は「当たり前」なのだ。それは他の人間もやっていることで自分がやっているのをすごいと思ってはいけないのだ。そこを念頭に置いていれば自然と「自分はイクメンだ」という言葉など出てこない。「自分はイクメンだ」などという世迷言が口に出てしまっているのであればよく考えるべきだ。本当に自分がやっていることを相手は全て感謝してくれているのかということを。妻の口から「いつも育児を手伝ってくれてありがとう」と言われるのを待ち続けながら育児に参加させてもらっているという気持ちを忘れずに生きていく。これが現代の夫に対して求められている考えだと思う。


ゲーム中の駆け引きはおもしろかった #プロパガンダゲーム

読んだ。綺麗にまとめました感が強かった。

ざっくりとしたあらすじを書くと、変わった入社試験の話になる。その変わった試験というのは、集団面接に集められた人間を政府側とレジスタンス側に分けて戦争をするかしないかについて市民を扇動する。先導した結果、戦争賛成が多ければ政府の勝利、戦争反対が多ければレジスタンスの勝利となる。巧みな心理戦を期待して読み始め、プロパガンダゲーム中は非常に盛り上がるので面白い。そう、ゲーム中は非常に面白かっただけにその後の話はもっと単純にまとめればよかったのではないかと思ってしまった。

戦争を扇動するという難しいテーマについては書いているだけあって、オチの付け方が非常に難しかったのだろう。現在、北朝鮮との緊張が高まっている現状、戦争という言葉が現実味を帯びているからこそ誰かが考えた仮想的な戦争についての討論というのは面白かったが、せっかく小説なのだからもうちょっとぶっ飛んだオチでも良かったのではないかと思ってしまう。問題提起をするのもいいだろうが、小説ぐらいもうちょっと気楽に読めたほうが楽しいんじゃないだろうか。

自分は「中の上」だと言っている理由

まず、自分が上位グループに属していると考えてみる。そうすると、性格上色んな人を見下してしまいそうな気がしている。今までの経験上、人を見下して会話をすると大抵良いことが起きない。ただでさえ人を見下している様に取られることが多い方なのでこれは良くない。自分が上にいすぎると考えると努力する必然性も感じることができないのがあまり良くない。なので、自分が上位グループに存在していると認識するのは意識的に避けている。

次に自分が下位グループに属していると考えてみる。そうなると努力する必然性も出てくる。しかし、下位グループにいるということは、足を引っ張っているということと変わらない。性格上、足を引っ張っているというのはあまり好きではないので努力をするのだろうが、どこまで努力をすれば下位グループから脱却できたのかという保証は何もない。努力し続けても何も結果が出なかった場合、自分の無能感に絶望し精神的にあまり良くない。わざわざ好き好んで挫折感を感じたくもないのでこれも避けている。

じゃあ、自分が中間だと考えてみるとどうだろう。これは結構いい線いっている。周りを見渡せば自分より出来る人もいれば出来ない人もいる。大抵どんなグループに属しても指標を変えれば出来ることと出来ないことが別れる。何かで負けていても別のところで勝っていれば自尊心を保てるし、上位グループに進むためにも努力する必然性はある。けれど、努力しなかったとしても真ん中にいるのだからしないならしくても良い。ただ、自分が中間だと考えると、自分ができることを出来ない人間というのは必然的に下位グループに属するということになる。自分ができることを人が当たり前にできると考えるのは危険なのでそう考えるようにはなりたくない。

こう考えていくと、自分は中の上にいると考えるのが精神的にも他の人に接するときにもちょうどいいバランスなんだと思っている。自分より出来ない人には優しく出来るし、自分よりできる人には強いリスペクトを持てる。適度に努力をしなければなず、努力しなくて精神的に追い詰められることもない。世の中絶対値で評価できることなど、なにかのテストぐらいで他の人間力や才能は感覚値でしかなく自分が勝手に判断するしか無い。だから適当に自分が居心地が良い場所を探して勝手に言ってれば良いんだろうと思う。