自分の「あたりまえ」を他人はあまりやってくれない

僕は何かしらの契約をする時に、やりとりをメールでお願いしている。理由はエビデンスを残すためだ。言った言わないを言い出すのは非常に不毛だし、どういう予定だったのかを見返すにもメールのほうが便利だ。職業柄メール文化に慣れているのでちょっとした質問ならすぐに返ってくるだろうと思ってメールするのだけれど、返答がすぐに帰ってくる人間は非常に少ない。悪いときだと「あなたのお名前はなんといいますか?」ぐらいの質問をしても丸2日待たされることもある。営業という職業柄、電話でのやり取りに慣れているというのもあるのだろうが、それにしても常識的に考えて返答が遅すぎるのではないかと思ってしまう。

また別のケースだと、メールで連絡しても電話で返ってくる時がある。堀江さんではないが、電話してくるなよと思いながらも出て話をした後に、「今話した内容を忘れると嫌なのでメールで送っておいてください」と言うのだけれどこれが守られることがほぼ無い。向こうとしても、客と言った言わないで揉める要因を減らすという利点があるはずなのにやってくれない。1日ぐらいたってから、やんわりと指摘すると、さも今作っていましたと言わんばかりのメールが返答されてしばらくしてからメールが来る。絶対忘れていたか、やりたくないから有耶無耶にしようとしていただろうと内心は思うわけだけれどそんなことは言わない。

僕の中で、連絡が来たら連絡を返すというのは「あたりまえ」だし、返答は早ければ早いほど相手の心象は良くなるだろうから、もし僕が営業だったら連絡をすぐにかえすというのは必須でやらなければならないと考えるだろう。しかしこの「あたりまえ」と思っていることをやってくる営業はかなり少ない。というか今まで接した営業は誰ひとりとしていない。これは僕の「あたりまえ」のレベルが高いからなのか、それとも「あたりまえ」を出来る人間が世の中には少ないのか非常に難しい。

別に結論はないわけだけど、相手が書いてきたメールの意味がわからなかったので「こういう意味ですか?」と質問したメールの返答が1日たっても帰ってこないのでイライラしてこの文章を書いている。自分の「あたりまえ」を人に押し付けるのは良くないと思うが何か調べ物をするわけでもなく、自分が作る出した文章の意味を問うているのに返答にそれだけ時間がかかる意味がわからない。「はい」か「いいえ」だけでいいのにどこにそんな時間がかかるのだろう。もしかしたら放置プレイをされているのかもしれないが、相手はまだあっていないためきったないおっさんの可能性も否定できない。というかその可能性のほうが高いのだろう。僕は少なからず残っているであろう、いまやり取りしている相手が石原さとみという可能性を想像しながら放置プレイに耐えてみようと思う。

周りを説得するより行動したほうが何かと捗る

何か素晴らしいアイデアをひらめいて、これは素晴らしいと他の人に布教してもやってくれなかったとしよう。このアイデアがいかに素晴らしいかが理解できていないのかと一生懸命説明したとして、それでも他の人はやってくれない。こんなに素晴らしいアイデアをやってくれないなんておかしい。どう説明すればいいんだろうとあなたは頭を悩ませるかも知れないし、なぜ理解してくれないんだと腹をたてるかもしれない。そういった時に一つだけ特効薬があるとしたらやってみることだと思う。考えるより行動したほうが早い。

例えば出社してすぐにラジオ体操をすると作業効率があがるという話があったとする。朝に運動をすることで頭が活性化して作業効率が10%上がると仮定する。それを知ったあなたは始業前にみんなでラジオ体操をすることを提案して、ラジオ体操にはこれだけよい効果があると一生懸命説明する。しかし、みんなの反応は芳しくない。この時に一番いいのはあなたが一人でラジオ体操をすることだ。ラジオ体操が素晴らしいのであれば自分ひとりでもやればいいし、それを見たりそれをやっているあなたのパフォーマンスが上がれば自ずとみんなラジオ体操をするようになるだろう。もしみんながやらないのであれば、自分にとっては素晴らしいのかもしれないがみんなにとっては素晴らしくないのだろう。あなたがラジオ体操をすることでパフォーマンスが上がったかもしれないが、みんなはラジオ体操をやったことによってパフォーマンスが下がると判断したのかもしれない。自分にとって素晴らしいからと言って他の人にそれを強要するというのは、他の人があなたがやっていることをやめさせるのと同じことだということを理解すべきだ。

自分が素晴らしいアイデアをひらめいた時はとりあえずやってみるのがいいと思う。もしそのアイデアが良ければ他の人に広がるし、広がらなかったとしても自分がそれをすることで何らかのパフォーマンスがあるのならやらないよりやったほうが良い。なにがしかの資金が必要なわけでもなく、行動するだけで出来るアイデアであればガンガンやればいいと思う。もしそこで業務中に無駄なことをするなと文句を言ってくるのであれば、その時に何故やっているのかを説明すれば良い。その説明で相手が納得せずに無理やりそれをやめさせようとするのであればそれは環境が悪いので環境を変えるたほうが早い。

ただしこれは他の人に迷惑をかけないというのが大前提としてある。ラジオ体操を大音量で流されたら他の人の作業に支障が出るだろう。その時はあなたは別の場所でそのアイデアを実行するべきだ。そこを曲げずにラジオ体操の音を理解できないあいつが悪いと開き直るのは筋違いだ。あなたにとっての素晴らしいアイデアというのは他の人は既に試した結果やっていないのかもしれないし、やる権利があるようにやらない権利もあることを理解したほうが良いのだろう。

Googleがクソなのは検索じゃなくて広告の方だと思う

http://yuko-hirom.hatenablog.com/entry/2017/01/03/123553

検索が無能だと言ってるけど、検索だけじゃなくて広告が無能。見られた数だけで広告料を払っているのが無能だと思う。本来広告は載る場所もかなり重要なはずで、デマばっかり流しているところに広告がでるということはその広告を出している物自体もデマに見えてくる。だから、テレビは企業イメージがあっている番組に対してスポンサーがついてお金を払って広告してもらう。しかし、今のインターネットは広告主はどこに載るのかはわからない。クリック率が良くなるであろうサイトに乗せているというだけで、それがポジティブであるかネガティブであるかは関係ない。登録時には一応審査があるが、審査が通ってしまえばユーザからの通報がなければ広告は出続けるしお金は払われ続ける。PVとクリック率でサイトを判断し、それがネガティブなPVであろうがポジティブなPVであろうが同じPVとして計算し、同じようにお金が払われる。ここが現状のインターネットが腐っている原因だと思う。

キュレーションだとかパクリだとかなぜそれをやるのかというとPVが集まればお金が儲かるからというだけだ。個人でもアフィリエイトで儲かるから読んでもいない本を紹介するしやってもいないゲームを紹介する。そこがクリックされてお金が儲かる仕組みがあるのだからしょうがない。この現状を変えるにはそもそもクソなサイトを作ったらお金が儲からないような仕組みを作るしか無い。例えばパクリでPVを稼いでお金を払っていたのであれば、そのパクリが発覚した時点でその払ったお金を返答させる仕組みを作るとかやりようはいくらでもある。

それをやらないのはやらないほうがGoogleも儲かるからだ。お金が儲かるならなにをやってもいいという時点でクソなんだけど、現状の仕組みがそうだからしょうがない。広告主がGoogleに出稿しなくなればいいんだろうけどそんなことも起こらないだろうし、クソを撒き散らしてクソに引っかかったカスが見に来てることにも気づかずにせっせとお金を払って広告を出し続ける。若い人は検索なんてしないとか言ってるからこの仕組はだんだんと壊れていくんだろう。今のところ、カスな広告を出すのが一番儲かるからGoogleも本気を出さないわけで僕ら一般市民が出来ることはカスみたいなサイトは表示しないしクリックしないことぐらいだと思う。

ITの業界で働きだして15年ぐらいたちました

昨日の誕生日で35歳を迎えました。せっかくの誕生日を風邪を引いてしまうという悲しいスタートを切ったわけですが、会社もお休みを頂いてせっかく時間もあることですし日記でも書こうと思います。

35歳というとIT業界では「35歳定年説」がまことしやかにささやかれていて、働き出した頃には戦々恐々としていましたが、いざ35歳になってみるとコードが書けなくなったわけでもないし、頭が回らなくなった気もせずまだまだコードを書いて生きていける気がしています。「35歳定年説」はSier業界で35歳になったら上流設計をして手を動かすのは若いものに任せないとお金を稼げないから言われていた話であって、最近のIT業界の記事とかを見ていると僕よりも年上でも現役バリバリのプログラマーもいっぱいいますし、会社も35歳以上はマネージャじゃないと給料が上る道がないという感じではなく他の道も示してくれている会社が多くなってきた気がします。今働いている会社も同様にプログラマーとしての道を示そうとしてくれているのでありがたい限りですし、これからさきもまだまだ若いもんには負けんぞという気概でプログラムをガシガシと組み続けていこうと思います。

20歳からいわゆるIT業界で働きだして、インフラエンジニアと言いながらカスタマーエンジニアさながらLANケーブルを作って自分で構築したファイルサーバをサーバ室にもっていって設置したり、C言語で組込系として携帯電話の開発に携わりパケットが流れることに一喜一憂したり、趣味でWebサービスを立ち上げてみて人が来ない寂しさを味わったりと下回りから上回りまで一通り触ってきました。色々なレイヤのものづくりを経験しましたが、やっぱりどのレイヤでもものづくりは楽しくて、自分が作ったものを人が触ってくれて楽しんでくれているのを見るのは下回りだろうが上回りだろうが変わらずいいものでして、これからも続けていきたいなと思う次第です。

35歳にもなると色々な引き出しが増えてきて、昔に比べると色々なことが出来るし求められることに対してすぐに返答できるようになりました。しかし、引き出しが増えるというのはパターンが増えるということで、パターンが増えると求められるものに対して似ているパターンを考えてついつい自分の引き出しの中から答えを探してしまい、結果として古臭い答えが出てきがちだと思います。どれだけ新しいインプットをしていても、自分が成功した引き出しは常に更新していかないとすぐに老害と呼ばれる人間になってしまいそうな気がしてきています。何かを求められたとき、何かの問題点の解決法を探す時に自分の引き出しの中でそれっぽいものが見つかったとしても、ちゃんと今のトレンドにそっているかを一旦立ち止まって考えることを肝に銘じておきたいものです。

一般的に30歳から40歳ぐらいが会社にとっての稼ぎ時だといわれていて、僕も丁度その中間になったことになります。40歳から先は段々と若い子の稼ぎに乗っかりながら生きていくことになるとか言われてますが、定年もだんだんと上がっていきますし僕が定年を迎えることには30歳から50歳ぐらいまでは稼ぎどきだとか言われているのかもしれません。僕が40際になったときにはまだまだ稼ぎどきだねとか言われるかもしれませんが、転職すると考えると今までは未来を買ってもらって転職していたものがこれからは過去を買ってもらって転職していくようになっていくのでしょう。これまでの自分が経験したことは変えることができないので、自分の価値を高めるためにやっていく戦略というのも丁度折り返しで変わっていかなければならないのかもしれません。戦略と言っても結局は自分を磨き続けるしか無いんでしょうけどね。

エンジニアとしては自分を代表するような何かを作ってみたいという願望は常々あり、所属している組織で判断されるより何を作ったかで認識される人間のほうがかっこいいよなと思うわけで、何か一つぐらいは世に自分を知らしめる何かを作りたいと考えて色々なことに手を出してきて生きてきました。結果として何かひらめいたら自分で作れるだけの技術は持つことはできたと思っているので、後はアイデアとやる気次第なんでしょうが、歳と共に野望も少しづつ削られてきている気がするのが寂しいところです。やれることの幅と作れるものの幅は広がっているのに気力と体はついてこないとはどういうことなんでしょうか。これが歳というものなのでしょうか。昔、細木数子先生の六星占術のもととなったと言われる占いを知り合いが勉強していてその人に占ってもらったことがあるんですが、僕は大器晩成で50台後半で大成するらしいのでそのころになると気力が増えてくるのかもしれないので気長にまとうと思います。

つらつらと風邪を引いて回らない頭でIT業界で働いている35歳として思うことを書いてみたわけですが、過去やってきたことが今に繋がってるんだなとひしひしと感じます。ぽっと今の自分が湧いたわけではなく、色々なことを感じながら学んできた結果として今の自分がいるように、これから先を良くしていきたいのであれば今を積み重ねて生きていくしか無いのでしょう。見城さんではないですが、今この瞬間が死に一番遠い時間であるように、今この瞬間が未来を一番変えることが出来る自分なんだろうと考えながら日々生きていくしか無いということが段々と身にしみてわかってきている気がします。

まぁ、35歳で結婚して子供もできている現状を作ることができた自分というのは今思うと出来すぎだと感じますが、15歳ぐらいの人生設計を考えると全然だったような気がします。それは自分というものを知ることができたから現状で満足できているのか、それとも15歳から妥協し続けた結果として今の自分で満足できているのかは今の僕の年齢ではまだわかりません。ただ、過去の積み重ねの結果として出来上がった自分を否定せずに満足できている現状は精神的には健全なんでしょう。これから何歳まで生きるのかわかりませんが、「現状に満足せず精進する」というような高尚な考えではなく、過去を振り返った時に「自分の能力でここに入れれば上出来だよな」と思えるぐらいの努力を「今」という時間にやっていこうと思いますのでよろしくお願いいたします。

話が通じないから武装して威圧するというのは意味が無いのかもしれないという話

最近、北朝鮮からミサイルがバンバン飛んで来るっていう話の流れで、松本さんが一発殴ってやらないといけないっていう言葉を発した後にピーコさんに「おすぎさんからバンバン殴られたら殴り返すでしょ?」って言われた後、ピーコさんが「戦争と人の喧嘩を一緒にしちゃダメよ」っていう言葉を空気が変わるぐらいの重さを出しながら言っててたしかになと思った。

SEALDSをバカにする目的で上がっているであろう動画で以下の動画がある。

https://www.youtube.com/watch?v=IPzTlRy6ek4

殴ってでも取りに行くけどどうするの?って煽ってるけど、これって国と国との問題を個人レベルに落とし込んで極論として自分のフィールドに持ち込もうとしていて、詐欺師が用いる手段と同じような気がする。個人レベルだと話し合いで解決しようとして殴ってでも取りに来られたら警察呼ぶし、警察がいなかったとしても人ごみで殴ってでも取ろうとしている人がいたら普通に周りの人は止めると思う。で、結局殴って奪いとったものは警察だったり周りの人だったりの仲裁を元に奪い取られた人の手元に戻って、殴った人は殴ったっていう結果だけ残るので、あいつは暴力してまでも人のものを取ろうとするやつだって言う悪い評判だけが残ることになる。個人でもこうなるのに国レベルだともっと色々なしがらみがあってなかなか手を出せないのが普通なんだろう。

いま日本が武装して自衛権を持つようにすると言っている。それは「殴られたら殴り返す」というアピールをすることなんだろう。あいつから殴られたらひどいことになりそうだっていうことをアピールすることで殴られないようにするという自衛方法なんだろうが、いくら強そうでもこいつは殴ってこないって言うことがバレてしまえばいくら強そうでもあまり意味なくなる。あいつはウドの大木だとバカにされ武装したぶんの費用だけが無駄になることになるんじゃなかろうか。自衛のためとは言え殴ってしまうと国単位で見るとたんこぶぐらいかもしれないが、個人単位で言えば多くの人が死ぬことになるんだろう。僕はそんな世界は来てほしくはない。

じゃあどうすればいいのかというと、周りの人に例えればチクリ魔になるのが一番いいんじゃなかろうか。何かされたら全世界に「こいつこんなひどいことしてまっせ」と事ある毎に文句を言い続ければちょっかいを出してこなくなるんじゃなかろうか。先生に言いつけまくるやつは格好悪いけど生存するための策略としては悪くないのかもしれない。それは話し合いで解決するというより言葉で殴り合うということになるんだろうが、直接ドンパチやるよりも建設的で平和的だと思う。

やることやってればなにやってもいいというのは会社の建前だよね

http://b.hatena.ne.jp/entry/292460435/comment/satohu20xx

よくやることやってれば休憩とろうがなんだろうがいいっていうことをいう人がいるけど、そのやることっていうのは何を指していってるんだっていうことがいつも疑問だったんだけど、この間会社の人が言われていたことが非常に腑に落ちたのでメモ代わりに書いておく。

その人との話での結論としては「やることやってれば寝てようが何しようがいい」という言葉は、「自分で作業を管理して作業効率を最大限にするならば寝ようがタバコ吸おうが気にしないよ」と等価だということだった。僕も同じ考えで言語化することができずに非常にもやもやしていたわけだけど、端的にいうとこうなるんだと思う。裏を返せば時間と作業量でしか判断しないから、一生懸命やったとか言う過程は全く無視して評価するということなので実力主義なのだと思う。完全に実力主義の会社じゃないとあまりうまく回らない考え方なのだろうし、内の会社は実力主義ですよっていうのをアピールするときによく使われる言葉なんだと思う。

そうは言っても周りで作業を見ている人は人間だから、感覚的に1日の作業が真面目にやって5の人と、さぼりながら6をこなす人ではまじめにやって5の人の方が今までの会社では評価は良かった気がする。その評価している人たちも口をそろえて「やることやってれば俺は気にしないんだけどね」って言ってたけど、無自覚ながらもさぼっていることについての減点が入っていることがよくあった。これが一日の作業量が10の人とかが出てくると、あの人は寝ててもすごい作業できるから良いっていう感じで別格な評価をされだして、本当の意味でやることやってれば関係ないって人になれる。

リンク先では煙草休憩は良くて昼寝休憩は・・・って言ってるけど、煙草休憩してる人も裏ではあいつはタバコばっかり吸っているっていう噂が立ってることはよくあるので、煙草休憩が全面的に認められているってわけではないと思う。非常に抜きに出ている人間以外は上手く見えないところでさぼって頑張っている風に見せたほうが、真正面から昼寝を取りつつやることやってんだから文句言うな!って主張するよりも社会人らしいし、世渡り上手なんだと思う。

やることやってりゃ問題ないっていうのは死ぬほど出来る人間の話で大抵の人はそれには当てはまらないのだからこの言葉は鵜呑みにしないほうが良いんじゃなかろうか。

人は変化を嫌う

最近CMでLINEバイトを見ると嫌悪感を感じてしまう。最近のバイトはスタンプでやり取りしてチャット感覚で友達と話すようにやりとりをやっているところを想像すると時代は変わったなと思うしバイトとはいえ仕事なんだからちょっとはちゃんとやり取りしたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。その一方で履歴書を手書きしか認めない起業に対しても嫌悪感を抱く。履歴書を手書きにしないと心がこもっていないとかいうが、読めればいいと思うし手描きよりもパソコンで書いたほうが綺麗で読みやすいしそんなことを言い出す会社は古臭いなと感じる。

これは僕が手書きからパソコンで履歴書を書いている時代に就職をしているからこう感じるだけであって、手書きで履歴書を書くのが当たり前だった時代の人間からすればパソコンで書くなんてと嫌悪感を感じ、電話やメールで面接の時間とかをオファーしていた人間からするとLINEでやり取りするなんてと嫌悪感を感じるのであろう。時代によってやり取りの方法は変わるし常識も変わるのに、昔の常識を持ち出してそんなことをやるのは失礼だと考えるのは変化を嫌っているだけなのかもしれない。

変化するということは新しいことを覚えないといけないということだし、新しい習慣を身につけなければいけないということだと思う。何かを身につけるということは年を取れば取るほど億劫になり、今までのルーチン化された動きが新たな習慣を身につける妨げになりやすい。もし、あなたが年上に何かを求めるのであれば古い常識に合わせて動けばその人はあなたに好意を持つし、年下の人であれば新しい常識に合わせて動けばその人は貴女に好意を持つ。相手を理解してその人が変化するのではなく、自分が人によって変化するとその人から受け入れられやすくなるのだろう。

しかしやり過ぎるとそれを八方美人となる。なにごとも加減が重要なのだろう。

極論で選択しちゃうと幅が広すぎて間違った方向に進みかねない

何かを買おうとするときにセールスポイントとかを聞いて、「ここがこういいんですよ」とか力説してくれる店員さんは非常にありがたい。けどたまに極論を出してきて自分が買わせたい方を勧めてくる人がいてそれが苦手。

例えば、「お子さんの健康を考えて浄水器をつけたほうがいいですよ」とか言ってくる感じの人が苦手。別にいらないから断ろうとすると「あなたはお子さんの健康を考えていないのですか?」みたいに鬼の首でもとったかのように言ってくるけど話の挿げ替えがすごいんだよね。そりゃ子供の健康は大事だし、健康になるようにしたいけどそれと浄水器をつけるかつけないかというのは別の話で、そんなことをいいだしたら全てオーガニックの物を食べたほうがいいだろうし、栄養士についてきっちり健康になるための食生活をしてもらったほうがいいし、インストラクターつけて運動学に従った運動をさせたほうが子供の健康を考えればいいに決まってる。子供の健康っていう大きな話で健康にしたいかしたくないかという極論を持ちだしてそれに商品をくっつけて話をするのは卑怯だしなんの生産性もない。

なにかを決めようとするときに極論を持ちだしてそれに付随して物事を決めようとする人には注意したほうがいいかもしれない。ベストとベターは違うしその時に一番良い選択というのは必ずしもベストな選択とは限らない。夢を語る時とかは極論で話をしてもいいと思うけど、現実的な小さな物事を決めるときに極論で選択しちゃうと幅が広すぎて間違った方向に進みかねないなぁと思う。

見せるための筋肉が僕はほしい

最近筋トレがブームなのか、どこもかしこも効率が良い筋トレで溢れている。自慢のボディの作り方とか夏までに絶対痩せるとか色々出ていてどこもかしこも煽るだけ煽って体つくりビジネスが大いに盛り上がってるよなーと思う。体鍛えるのは楽しいしいいんだけど、こういうブームがうざったいのかなんなのか「見せるための筋肉を作ってもなんも意味ないよね」とか言い出す人がいるんだけどあれなんなんだろう。そういうこと言ってる人に聞いてみたいんだが「見せるため以外の筋肉」って何を言ってるんだって思う。

肥大化しすぎた筋肉は動きを阻害してスピードを殺すとか聞いたりするけど、それを体験できるまでの筋肉とか相当頑張らないとつかない。普通の人が筋トレしてもちょっと重いもの挙げれるようになりました。ってぐらいの筋肉しかつかないし、もしスピードを殺すほどの筋肉をつけれたらそれはかなりのパワーがついてる。そして大人になって見せる以外で筋肉の使いみちってどこにあるのかよくわからない。日常生活で全力で絶対上がらないだろうと思うぐらい重いものを上げる機会なんて無いし、全力でダッシュするなんてこともない。どこぞの森に入ってくまさんが度々襲ってくるんであれば全力ダッシュするんだろうけど、僕はそんな山間に住んでないしくまと遭遇することも全然ない。筋肉なんて日常生活を送る上だと減っていく一方で腹も出て格好わるい体型になっていくもので、それを阻止するためにみんな筋トレをしてるんだから「見せるための筋肉」が一番ほしいものだしそのために筋トレしてるんだよ。

みんな体が病むと心も病むから筋トレするといいと思う。筋トレして体がでかくなって「見せるための筋肉」をつけることができればそれでいいんだよ。道行くヤンキーによく絡まれていた人もボブサップぐらいまで筋トレしてでかくなってみればいいと思う。道行くボブサップに喧嘩売る人間は道行く江頭2:50に喧嘩売る人間より少ないだろう。どちらが筋肉の質がいいかといえば江頭2:50の方が量より質という意味では良い筋肉ができているだろうと思うが、結果として恩恵を受けるのはボブサップの方だ。結局人生なんてそんなもんなんだと思う。

スピードが早くて雑なのとスピードが遅くて正確なのはどちらがよいのか?

以下を読んでの感想

http://satoshi.blogs.com/life/2016/06/time8.html

雑にやってもいいけど早いほうがいいフェーズと遅くてもいいから正確なほうがいいフェーズがあるというだけであって、どちらがいいかといわれるとやってることによるよね。としか言えない。何かを作るときには0から1にするとフェーズと1から100にするフェーズがあって、0から1にするフェーズ正確性よりスピードが必要だし、1から100にするフェーズではスピードより正確性が必要だと思う。

例えば何かのサービスを作って起業するという時を考えてみる。起業して直ぐというのはどうしてもお金がない。時は金なりとよくいったもので、時間がかかればかかるほど資本金は減っていき、早めに黒字化するためにスピード感を持って作らないといけない。作りが~とかテストが~とか言ってグダグダしてるうちにお金がつきて死んでしまったら元も子もないので正確さとかは無視してでもスピードを持って作っていかないといけない。これが得意な人というのがブログ主なんだと思う。

しかしこういう人は得てして正確性にかける。ここで言う正確性とは非常に稀に起こるエラー処理だったり正常な動作をしている間は関係ない部分だったりするところだ。そういう部分に目をつぶって作ることでスピードを上げて全体像を見せて取りあえず動くというものを作っているからこそ作る速度が早いんだと思う。

さて、じゃあこれをそのまま使い続けることが出来るか?と言われれば使い続けることはできないだろう。事業が黒字化してそれなりに起動に乗った時に時間をとって大幅に作り変えたり、テストを書いて安定性を上げたりするフェーズが必要になる。これが1から100にすると言っているフェーズだ。ここではスピードはいらない。愚直に正確に地味に作り続けなければならない。スピードを上げるよりも正確性を大事に作業しなければならないフェーズだ。

0から1を作った人は1から100にする人をスピードが遅いとバカにして、1から100にする人は0から1を作った人が作ったものを見てバグが多くて品質が悪いとバカにする。これはすごく不毛でどちらもフェーズによって重要なものが違うからスピードと正確性が違うというだけなのだ。どちらが優れている、優れていないという話ではない。どちらも必要でどちらもすごく大事なことなのだ。

どちらのフェーズもいいものを作ろうとしているというのは同じなのだからいがみ合ったりせずにどちらとも尊重しながら上手くやっていければ一番いいのだろうがよく不毛な争いをしているのを見るし、僕も品質悪いなぁと思ったり作業遅いなぁと思ったりすることもある。しかし、それはそういうフェーズであるだけなのかもしれない。一歩引いて全体を見ていがみ合わずに作業していければ一番いいんだろうなぁ。