人は変化を嫌う

最近CMでLINEバイトを見ると嫌悪感を感じてしまう。最近のバイトはスタンプでやり取りしてチャット感覚で友達と話すようにやりとりをやっているところを想像すると時代は変わったなと思うしバイトとはいえ仕事なんだからちょっとはちゃんとやり取りしたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。その一方で履歴書を手書きしか認めない起業に対しても嫌悪感を抱く。履歴書を手書きにしないと心がこもっていないとかいうが、読めればいいと思うし手描きよりもパソコンで書いたほうが綺麗で読みやすいしそんなことを言い出す会社は古臭いなと感じる。

これは僕が手書きからパソコンで履歴書を書いている時代に就職をしているからこう感じるだけであって、手書きで履歴書を書くのが当たり前だった時代の人間からすればパソコンで書くなんてと嫌悪感を感じ、電話やメールで面接の時間とかをオファーしていた人間からするとLINEでやり取りするなんてと嫌悪感を感じるのであろう。時代によってやり取りの方法は変わるし常識も変わるのに、昔の常識を持ち出してそんなことをやるのは失礼だと考えるのは変化を嫌っているだけなのかもしれない。

変化するということは新しいことを覚えないといけないということだし、新しい習慣を身につけなければいけないということだと思う。何かを身につけるということは年を取れば取るほど億劫になり、今までのルーチン化された動きが新たな習慣を身につける妨げになりやすい。もし、あなたが年上に何かを求めるのであれば古い常識に合わせて動けばその人はあなたに好意を持つし、年下の人であれば新しい常識に合わせて動けばその人は貴女に好意を持つ。相手を理解してその人が変化するのではなく、自分が人によって変化するとその人から受け入れられやすくなるのだろう。

しかしやり過ぎるとそれを八方美人となる。なにごとも加減が重要なのだろう。

極論で選択しちゃうと幅が広すぎて間違った方向に進みかねない

何かを買おうとするときにセールスポイントとかを聞いて、「ここがこういいんですよ」とか力説してくれる店員さんは非常にありがたい。けどたまに極論を出してきて自分が買わせたい方を勧めてくる人がいてそれが苦手。

例えば、「お子さんの健康を考えて浄水器をつけたほうがいいですよ」とか言ってくる感じの人が苦手。別にいらないから断ろうとすると「あなたはお子さんの健康を考えていないのですか?」みたいに鬼の首でもとったかのように言ってくるけど話の挿げ替えがすごいんだよね。そりゃ子供の健康は大事だし、健康になるようにしたいけどそれと浄水器をつけるかつけないかというのは別の話で、そんなことをいいだしたら全てオーガニックの物を食べたほうがいいだろうし、栄養士についてきっちり健康になるための食生活をしてもらったほうがいいし、インストラクターつけて運動学に従った運動をさせたほうが子供の健康を考えればいいに決まってる。子供の健康っていう大きな話で健康にしたいかしたくないかという極論を持ちだしてそれに商品をくっつけて話をするのは卑怯だしなんの生産性もない。

なにかを決めようとするときに極論を持ちだしてそれに付随して物事を決めようとする人には注意したほうがいいかもしれない。ベストとベターは違うしその時に一番良い選択というのは必ずしもベストな選択とは限らない。夢を語る時とかは極論で話をしてもいいと思うけど、現実的な小さな物事を決めるときに極論で選択しちゃうと幅が広すぎて間違った方向に進みかねないなぁと思う。

最後の一文が理解できなかったのが残念 – 砕け散るところを見せてあげる

読んだ。疾走感と読了後の難しさが残る作品だった。

本作は、いじめられっ子の後輩の女の子とそれを放っておくことができない先輩の男の子の純愛ストーリーが主軸となる。文章が高校生らしい疾走感を持っていて独特だと感じたので作者について調べて見るとこの人はもともとライトノベル作家らしい。ライトノベルはあまり読まないので偏見でしか無いが、文章と会話と話の進み方がライトノベル作家が書きましたと言われると何となく頷ける。文章が読みやすく軽い。

もとも本作を手にとった理由は帯に書いてあった文章だった記憶がある。「最後の一文の意味を理解した時にあなたは涙する」というような内容が記載してあったはずだ。さらに僕が好きな作家である伊坂幸太郎さんも絶賛していると書いてあり非常に興味をそそられたのだ。読んでいる間はその言葉を忘れて、わかりやすく展開してく中盤までと怒涛の展開で読者を裏切り続けていく中盤に引きこまれてしまったわけだが、終盤が誰がどの視点で書いているのか非常にわかりにくく終始理解に苦しんだ。読み終わった後に帯の最後の一文がという言葉を思い出してもう一度終盤を読みなおしてみたがわからない。最後の一文を理解したら涙すると書かれている言葉が本当なのであれば僕は理解することができなかったのかもしれない。

見せるための筋肉が僕はほしい

最近筋トレがブームなのか、どこもかしこも効率が良い筋トレで溢れている。自慢のボディの作り方とか夏までに絶対痩せるとか色々出ていてどこもかしこも煽るだけ煽って体つくりビジネスが大いに盛り上がってるよなーと思う。体鍛えるのは楽しいしいいんだけど、こういうブームがうざったいのかなんなのか「見せるための筋肉を作ってもなんも意味ないよね」とか言い出す人がいるんだけどあれなんなんだろう。そういうこと言ってる人に聞いてみたいんだが「見せるため以外の筋肉」って何を言ってるんだって思う。

肥大化しすぎた筋肉は動きを阻害してスピードを殺すとか聞いたりするけど、それを体験できるまでの筋肉とか相当頑張らないとつかない。普通の人が筋トレしてもちょっと重いもの挙げれるようになりました。ってぐらいの筋肉しかつかないし、もしスピードを殺すほどの筋肉をつけれたらそれはかなりのパワーがついてる。そして大人になって見せる以外で筋肉の使いみちってどこにあるのかよくわからない。日常生活で全力で絶対上がらないだろうと思うぐらい重いものを上げる機会なんて無いし、全力でダッシュするなんてこともない。どこぞの森に入ってくまさんが度々襲ってくるんであれば全力ダッシュするんだろうけど、僕はそんな山間に住んでないしくまと遭遇することも全然ない。筋肉なんて日常生活を送る上だと減っていく一方で腹も出て格好わるい体型になっていくもので、それを阻止するためにみんな筋トレをしてるんだから「見せるための筋肉」が一番ほしいものだしそのために筋トレしてるんだよ。

みんな体が病むと心も病むから筋トレするといいと思う。筋トレして体がでかくなって「見せるための筋肉」をつけることができればそれでいいんだよ。道行くヤンキーによく絡まれていた人もボブサップぐらいまで筋トレしてでかくなってみればいいと思う。道行くボブサップに喧嘩売る人間は道行く江頭2:50に喧嘩売る人間より少ないだろう。どちらが筋肉の質がいいかといえば江頭2:50の方が量より質という意味では良い筋肉ができているだろうと思うが、結果として恩恵を受けるのはボブサップの方だ。結局人生なんてそんなもんなんだと思う。

スピードが早くて雑なのとスピードが遅くて正確なのはどちらがよいのか?

以下を読んでの感想

http://satoshi.blogs.com/life/2016/06/time8.html

雑にやってもいいけど早いほうがいいフェーズと遅くてもいいから正確なほうがいいフェーズがあるというだけであって、どちらがいいかといわれるとやってることによるよね。としか言えない。何かを作るときには0から1にするとフェーズと1から100にするフェーズがあって、0から1にするフェーズ正確性よりスピードが必要だし、1から100にするフェーズではスピードより正確性が必要だと思う。

例えば何かのサービスを作って起業するという時を考えてみる。起業して直ぐというのはどうしてもお金がない。時は金なりとよくいったもので、時間がかかればかかるほど資本金は減っていき、早めに黒字化するためにスピード感を持って作らないといけない。作りが~とかテストが~とか言ってグダグダしてるうちにお金がつきて死んでしまったら元も子もないので正確さとかは無視してでもスピードを持って作っていかないといけない。これが得意な人というのがブログ主なんだと思う。

しかしこういう人は得てして正確性にかける。ここで言う正確性とは非常に稀に起こるエラー処理だったり正常な動作をしている間は関係ない部分だったりするところだ。そういう部分に目をつぶって作ることでスピードを上げて全体像を見せて取りあえず動くというものを作っているからこそ作る速度が早いんだと思う。

さて、じゃあこれをそのまま使い続けることが出来るか?と言われれば使い続けることはできないだろう。事業が黒字化してそれなりに起動に乗った時に時間をとって大幅に作り変えたり、テストを書いて安定性を上げたりするフェーズが必要になる。これが1から100にすると言っているフェーズだ。ここではスピードはいらない。愚直に正確に地味に作り続けなければならない。スピードを上げるよりも正確性を大事に作業しなければならないフェーズだ。

0から1を作った人は1から100にする人をスピードが遅いとバカにして、1から100にする人は0から1を作った人が作ったものを見てバグが多くて品質が悪いとバカにする。これはすごく不毛でどちらもフェーズによって重要なものが違うからスピードと正確性が違うというだけなのだ。どちらが優れている、優れていないという話ではない。どちらも必要でどちらもすごく大事なことなのだ。

どちらのフェーズもいいものを作ろうとしているというのは同じなのだからいがみ合ったりせずにどちらとも尊重しながら上手くやっていければ一番いいのだろうがよく不毛な争いをしているのを見るし、僕も品質悪いなぁと思ったり作業遅いなぁと思ったりすることもある。しかし、それはそういうフェーズであるだけなのかもしれない。一歩引いて全体を見ていがみ合わずに作業していければ一番いいんだろうなぁ。

もし日本全国民からいきなり自分が忘れ去られたなら – なくなった私へ

読んだ。このミス大賞ということで期待したが少々微妙だった。

話は、誰もが知る芸能人が目が覚めると誰も自分を自分として認識しなくなっていて、しかも自分が自殺したというニュースを見たところから始まる。自殺した理由も思い浮かばず途方にくれているところに、自分を自分だと認識できる青年と少年と出会い、3人で自分が認識されなくなった謎を調査していくのが大きな話の流れとなる。途中途中で「輪廻の泉」という話が挟まり、これがどう主のストーリーと絡んでくるのかも見どころだと思う。

認識されなくなったのが有名人という設定がよく、「このミス」の大賞を取るほどの作品となるとラストでどうまとめるのかと期待しながら読んだが話の主軸と違うところが気になりすぎてしょうがない。見ず知らずの人間を止めてくれるお人好しのお姉さんだとか、学校に行かなくても何も言われない小学生だとか、ラストシーンで唐突に出てくる感動用の人間たちとかどうしても設定の詰めの甘さを感じずに入られない。ただ、その詰めの甘さを抜きにしてもなかなか長いこの話をストレスなく読ませる力というのはすごいと思う。そういうことかという納得感はあまりなかったがとりあえずまとまってはいるんじゃなかろうか。