アイデアを出すにはパッケージが重要である – 悪意とこだわりの演出術

読んだ。番組の裏側の小話が面白かった。

最近のテレビ番組の中で「水曜日のダウンタウン」が攻めていて面白いと思っていた。悪意が強く叩かれるギリギリのラインを攻めて番組が出来上がっていてたまにきっちりと叩かれているけれど他の番組には無い個性があって非常に面白い。その番組を作っているディレクターが書いた本ということで、どんな感性をもって番組を作ったりしているのか気になり一気に読んでしまった。読み終わった感想としては「よく色々なことを覚えているな」ということだ。自分の琴線に触れたものはよく覚えていると本書内に書いているのだが、それでも覚え過ぎだろうと思うほど色々覚えている。関わった全ての番組に熱意を注ぎまくって作った結果なのかなと勝手に思った。

面白いものを作る方程式として「パッケージを作ってそこから微妙にはみ出す」という作り方をしているらしい。「水曜日のダウンタウン」であれば、何かの説を立証するという見ている人にわかりやすいルールを提供して、そこからどう遊ぶか?ということを考えないとわかりにくく面白くないものが出来上がるようだ。なにかの物事を考えるときに枠組みがあるのと無いのでは出てくるアイデアも全然違ってくる。どこに向かうのか?ということだけは決めておかないとアイデアの方向性がチグハグなものがたくさん出てきて何かに絞って考えるのが難しくなるのだろう。広げやすくパッケージ化しやすいルールが決まってしまえば後は知恵を出し合えばそれなりにうまくいくので最初のルール決めが一番重要なんだろう。

また、尖ったものを作るために全てを自分で決めるらしい。いろいろな人の意見をまとめると及第点のものはできあがるけれども爆発的に面白いものができないので自分で全てを決めていると書いてあった。

http://blog.choilabo.com/20141114/412

とかで前に書いたけど、万人受けするものではなくて一部の人にすごく受けるものというのは強烈な個性が必要で、その個性というものは意見を取り入れれば取り入れるほど削り取られていくんだと思う。サンデーの編集長が変わって最近面白くなってきたという話を聞くが、それも編集長一人が全ての責任を負ってでも最終決定は一人でやっているからこその個性であり面白みなんだろう。なかなか勇気がいるし、ワンマンだと文句も色々出るんだろうが、一回ぐらい全てを自分で決めるプロジェクトを立ち上げて自分の感性はどれくらい世間に受け入れてもらえるのかということを試してみたいものだ。

話が通じないから武装して威圧するというのは意味が無いのかもしれないという話

最近、北朝鮮からミサイルがバンバン飛んで来るっていう話の流れで、松本さんが一発殴ってやらないといけないっていう言葉を発した後にピーコさんに「おすぎさんからバンバン殴られたら殴り返すでしょ?」って言われた後、ピーコさんが「戦争と人の喧嘩を一緒にしちゃダメよ」っていう言葉を空気が変わるぐらいの重さを出しながら言っててたしかになと思った。

SEALDSをバカにする目的で上がっているであろう動画で以下の動画がある。

https://www.youtube.com/watch?v=IPzTlRy6ek4

殴ってでも取りに行くけどどうするの?って煽ってるけど、これって国と国との問題を個人レベルに落とし込んで極論として自分のフィールドに持ち込もうとしていて、詐欺師が用いる手段と同じような気がする。個人レベルだと話し合いで解決しようとして殴ってでも取りに来られたら警察呼ぶし、警察がいなかったとしても人ごみで殴ってでも取ろうとしている人がいたら普通に周りの人は止めると思う。で、結局殴って奪いとったものは警察だったり周りの人だったりの仲裁を元に奪い取られた人の手元に戻って、殴った人は殴ったっていう結果だけ残るので、あいつは暴力してまでも人のものを取ろうとするやつだって言う悪い評判だけが残ることになる。個人でもこうなるのに国レベルだともっと色々なしがらみがあってなかなか手を出せないのが普通なんだろう。

いま日本が武装して自衛権を持つようにすると言っている。それは「殴られたら殴り返す」というアピールをすることなんだろう。あいつから殴られたらひどいことになりそうだっていうことをアピールすることで殴られないようにするという自衛方法なんだろうが、いくら強そうでもこいつは殴ってこないって言うことがバレてしまえばいくら強そうでもあまり意味なくなる。あいつはウドの大木だとバカにされ武装したぶんの費用だけが無駄になることになるんじゃなかろうか。自衛のためとは言え殴ってしまうと国単位で見るとたんこぶぐらいかもしれないが、個人単位で言えば多くの人が死ぬことになるんだろう。僕はそんな世界は来てほしくはない。

じゃあどうすればいいのかというと、周りの人に例えればチクリ魔になるのが一番いいんじゃなかろうか。何かされたら全世界に「こいつこんなひどいことしてまっせ」と事ある毎に文句を言い続ければちょっかいを出してこなくなるんじゃなかろうか。先生に言いつけまくるやつは格好悪いけど生存するための策略としては悪くないのかもしれない。それは話し合いで解決するというより言葉で殴り合うということになるんだろうが、直接ドンパチやるよりも建設的で平和的だと思う。

良いスピーチとはなにかをわかりやすく感じる – 本日は、お日柄もよく

読んだ。わかりやすい展開とテンポの良い作品だと思う。

ざっくりというと友人の結婚式でスピーチしている女の人に興味をひかれて紆余曲折ありながらスピーチライターになっていく女の子を描いた物語だ。よく言えば全体的に文章が軽く、中学生から高校生ぐらいが読みやすく理解しやすい本だと思う。悪く言えば薄い表現ばかりで読み応えは無い。スピーチライターという職業がキャッチーでみんながなんとなく思っているプレゼンのもどかしさを触りの部分だけわかりやすく記載しているのがヒットの要因なんだろうか。僕には少女漫画をそのまま文章にしたように感じてあまり好みの話ではなかった。

本作とはちょっとズレるかもしれないが、本作ではスピーチとして自民党と民進党のパロディ的な話がある。民進党は自民党が出してきたスピーチと真逆のことをいって対抗馬としての地位を作らないといけないというような表現が出てくるのだが、野党のスピーチを効いていると自民党の揚げ足取りと真逆の事を言うことを念頭に置きすぎているように聞こえてしまう。この本が広がれば広がるほど自民党が自主的に制作を考えて発表して野党はそれを批判するという構図なのだと世間に広がってしまうのはどうかと思う。まぁ、広まってもこれはフィクションなのだから現実は全然違うスピーチをしていてくれればいいのだが、僕の目から見るとこの本に書いてあるとおり真逆のことを言ってとりあえず自民党に反発している人間の票を取り込もうとしているようにしか見えないのが悲しいところだ。与党の支持率が下がったから野党の支持率があがるというのではなく、野党の支持率が上がったから与党の支持率が下がるという構図を作り出せるように揚げ足取りばかりしているように見えないスピーチをしてほしいものだ。

広がり続けて狭まっていくインターネットの世界よ – さよならインターネット

読んだ。家入さんという人らしさが出ている本だと思う。

先に書いておくと僕は家入さんをよく知らない。ペパボの元社長で稼いだ金を全部溶かしてなにかやっては炎上してる面白そうな人というぐらいの知識はあるけど、実際にあって話したことは無いし、なんなら顔もよく知らない。やりたいことをやって炎上しまくっているのに周りから人がいなくなってなさそうなので、いい人なんだろうと思っていたけど、この本を読み終わっても印象は変わらなかった。基本的にはいい人でインターネットを使って周りの人が助かればいいという考えで色々作っているのだろう。インターネットに助けられ、インターネットを使って知らない人が勝手に助かってくれればいいかなぐらいの気持ちでサービスを作っている。そんな人なんだろう。そんなインターネットに助けられそばに寄り添われながら生きてきた家入さんが「さよならインターネット」といっているのだから重みが違うと思う。

この本にも書かれていて僕自信も感じているのはインターネットというものは性質上、自分が好む情報しかはいってこないランダム性が少ないものになってきているということだ。僕は一時期テレビを持たずに、世間の情報を得るのはインターネットのみの時期があるのだがこのときに一番困ったのは世間ではやっていることがよくわからなくなるということだった。インターネットは知ろうとすれば事細かに色々なことを知ることは出来るが、興味が無いものを知ることにこれほど適していないツールはない。色々なサービスが良かれと思って自分が好きなことを送ってくれて嫌いなことは排除してくれる。インターネットに浸かりこめば浸かりこむほど自分が好きな情報しか流れてこない居心地のいい世界が出来上がっていくが、それはもしかしたら好きになるかもしれない情報を遮断してどんどんと狭い世界に生きていっていることにすぎないわけで、それが良いことか悪いことなのかそれは人によるのだろう。家入さんはそれを良しと思わず、あえてインターネットから離れることでランダムに好きになるかもしれない情報も入れていくべきだと言っている。

現状のインターネットは好きなことを発言すればわけの分からない人間から叩かれる脅威は誰にも等しくあり面白くない。面白い発言をすれば叩かれる可能性は高くなり、誰もがポジショントークをしている。ポジショントークだけであればよいが、アフィリエイトでお金を稼ぐためだけに全く知らないことをあたかも体験したかのように記事を書き、自分はこれだけ儲かっているのだと周りにアピールする。そんな無味無臭で毒にも薬にもならないもので承認欲求を満足させることが出来るのであればそれはそれで良いのかもしれないが僕はそれを見たくない。それを見たくないがゆえにフィルタすればするほどインターネットの世界は狭くなり居心地のいい生きながらに死んでいる世界が出来上がっていくのだろう。

そんな世界に住みたくないけど、僕はインターネットから離れたいと思うほどまだ達観もできていない。まだまだインターネットからいろいろな情報をもらいたいし、僕自信もいろいろな情報を発信できれば良いなぁと思っている。なので、とりあえずははてブ互助会が全て死滅してはてブだけでもそれなりに気持ちいい世界が出来上がれば良いなぁと切に願う。

やることやってればなにやってもいいというのは会社の建前だよね

http://b.hatena.ne.jp/entry/292460435/comment/satohu20xx

よくやることやってれば休憩とろうがなんだろうがいいっていうことをいう人がいるけど、そのやることっていうのは何を指していってるんだっていうことがいつも疑問だったんだけど、この間会社の人が言われていたことが非常に腑に落ちたのでメモ代わりに書いておく。

その人との話での結論としては「やることやってれば寝てようが何しようがいい」という言葉は、「自分で作業を管理して作業効率を最大限にするならば寝ようがタバコ吸おうが気にしないよ」と等価だということだった。僕も同じ考えで言語化することができずに非常にもやもやしていたわけだけど、端的にいうとこうなるんだと思う。裏を返せば時間と作業量でしか判断しないから、一生懸命やったとか言う過程は全く無視して評価するということなので実力主義なのだと思う。完全に実力主義の会社じゃないとあまりうまく回らない考え方なのだろうし、内の会社は実力主義ですよっていうのをアピールするときによく使われる言葉なんだと思う。

そうは言っても周りで作業を見ている人は人間だから、感覚的に1日の作業が真面目にやって5の人と、さぼりながら6をこなす人ではまじめにやって5の人の方が今までの会社では評価は良かった気がする。その評価している人たちも口をそろえて「やることやってれば俺は気にしないんだけどね」って言ってたけど、無自覚ながらもさぼっていることについての減点が入っていることがよくあった。これが一日の作業量が10の人とかが出てくると、あの人は寝ててもすごい作業できるから良いっていう感じで別格な評価をされだして、本当の意味でやることやってれば関係ないって人になれる。

リンク先では煙草休憩は良くて昼寝休憩は・・・って言ってるけど、煙草休憩してる人も裏ではあいつはタバコばっかり吸っているっていう噂が立ってることはよくあるので、煙草休憩が全面的に認められているってわけではないと思う。非常に抜きに出ている人間以外は上手く見えないところでさぼって頑張っている風に見せたほうが、真正面から昼寝を取りつつやることやってんだから文句言うな!って主張するよりも社会人らしいし、世渡り上手なんだと思う。

やることやってりゃ問題ないっていうのは死ぬほど出来る人間の話で大抵の人はそれには当てはまらないのだからこの言葉は鵜呑みにしないほうが良いんじゃなかろうか。

人は変化を嫌う

最近CMでLINEバイトを見ると嫌悪感を感じてしまう。最近のバイトはスタンプでやり取りしてチャット感覚で友達と話すようにやりとりをやっているところを想像すると時代は変わったなと思うしバイトとはいえ仕事なんだからちょっとはちゃんとやり取りしたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。その一方で履歴書を手書きしか認めない起業に対しても嫌悪感を抱く。履歴書を手書きにしないと心がこもっていないとかいうが、読めればいいと思うし手描きよりもパソコンで書いたほうが綺麗で読みやすいしそんなことを言い出す会社は古臭いなと感じる。

これは僕が手書きからパソコンで履歴書を書いている時代に就職をしているからこう感じるだけであって、手書きで履歴書を書くのが当たり前だった時代の人間からすればパソコンで書くなんてと嫌悪感を感じ、電話やメールで面接の時間とかをオファーしていた人間からするとLINEでやり取りするなんてと嫌悪感を感じるのであろう。時代によってやり取りの方法は変わるし常識も変わるのに、昔の常識を持ち出してそんなことをやるのは失礼だと考えるのは変化を嫌っているだけなのかもしれない。

変化するということは新しいことを覚えないといけないということだし、新しい習慣を身につけなければいけないということだと思う。何かを身につけるということは年を取れば取るほど億劫になり、今までのルーチン化された動きが新たな習慣を身につける妨げになりやすい。もし、あなたが年上に何かを求めるのであれば古い常識に合わせて動けばその人はあなたに好意を持つし、年下の人であれば新しい常識に合わせて動けばその人は貴女に好意を持つ。相手を理解してその人が変化するのではなく、自分が人によって変化するとその人から受け入れられやすくなるのだろう。

しかしやり過ぎるとそれを八方美人となる。なにごとも加減が重要なのだろう。

極論で選択しちゃうと幅が広すぎて間違った方向に進みかねない

何かを買おうとするときにセールスポイントとかを聞いて、「ここがこういいんですよ」とか力説してくれる店員さんは非常にありがたい。けどたまに極論を出してきて自分が買わせたい方を勧めてくる人がいてそれが苦手。

例えば、「お子さんの健康を考えて浄水器をつけたほうがいいですよ」とか言ってくる感じの人が苦手。別にいらないから断ろうとすると「あなたはお子さんの健康を考えていないのですか?」みたいに鬼の首でもとったかのように言ってくるけど話の挿げ替えがすごいんだよね。そりゃ子供の健康は大事だし、健康になるようにしたいけどそれと浄水器をつけるかつけないかというのは別の話で、そんなことをいいだしたら全てオーガニックの物を食べたほうがいいだろうし、栄養士についてきっちり健康になるための食生活をしてもらったほうがいいし、インストラクターつけて運動学に従った運動をさせたほうが子供の健康を考えればいいに決まってる。子供の健康っていう大きな話で健康にしたいかしたくないかという極論を持ちだしてそれに商品をくっつけて話をするのは卑怯だしなんの生産性もない。

なにかを決めようとするときに極論を持ちだしてそれに付随して物事を決めようとする人には注意したほうがいいかもしれない。ベストとベターは違うしその時に一番良い選択というのは必ずしもベストな選択とは限らない。夢を語る時とかは極論で話をしてもいいと思うけど、現実的な小さな物事を決めるときに極論で選択しちゃうと幅が広すぎて間違った方向に進みかねないなぁと思う。

最後の一文が理解できなかったのが残念 – 砕け散るところを見せてあげる

読んだ。疾走感と読了後の難しさが残る作品だった。

本作は、いじめられっ子の後輩の女の子とそれを放っておくことができない先輩の男の子の純愛ストーリーが主軸となる。文章が高校生らしい疾走感を持っていて独特だと感じたので作者について調べて見るとこの人はもともとライトノベル作家らしい。ライトノベルはあまり読まないので偏見でしか無いが、文章と会話と話の進み方がライトノベル作家が書きましたと言われると何となく頷ける。文章が読みやすく軽い。

もとも本作を手にとった理由は帯に書いてあった文章だった記憶がある。「最後の一文の意味を理解した時にあなたは涙する」というような内容が記載してあったはずだ。さらに僕が好きな作家である伊坂幸太郎さんも絶賛していると書いてあり非常に興味をそそられたのだ。読んでいる間はその言葉を忘れて、わかりやすく展開してく中盤までと怒涛の展開で読者を裏切り続けていく中盤に引きこまれてしまったわけだが、終盤が誰がどの視点で書いているのか非常にわかりにくく終始理解に苦しんだ。読み終わった後に帯の最後の一文がという言葉を思い出してもう一度終盤を読みなおしてみたがわからない。最後の一文を理解したら涙すると書かれている言葉が本当なのであれば僕は理解することができなかったのかもしれない。

見せるための筋肉が僕はほしい

最近筋トレがブームなのか、どこもかしこも効率が良い筋トレで溢れている。自慢のボディの作り方とか夏までに絶対痩せるとか色々出ていてどこもかしこも煽るだけ煽って体つくりビジネスが大いに盛り上がってるよなーと思う。体鍛えるのは楽しいしいいんだけど、こういうブームがうざったいのかなんなのか「見せるための筋肉を作ってもなんも意味ないよね」とか言い出す人がいるんだけどあれなんなんだろう。そういうこと言ってる人に聞いてみたいんだが「見せるため以外の筋肉」って何を言ってるんだって思う。

肥大化しすぎた筋肉は動きを阻害してスピードを殺すとか聞いたりするけど、それを体験できるまでの筋肉とか相当頑張らないとつかない。普通の人が筋トレしてもちょっと重いもの挙げれるようになりました。ってぐらいの筋肉しかつかないし、もしスピードを殺すほどの筋肉をつけれたらそれはかなりのパワーがついてる。そして大人になって見せる以外で筋肉の使いみちってどこにあるのかよくわからない。日常生活で全力で絶対上がらないだろうと思うぐらい重いものを上げる機会なんて無いし、全力でダッシュするなんてこともない。どこぞの森に入ってくまさんが度々襲ってくるんであれば全力ダッシュするんだろうけど、僕はそんな山間に住んでないしくまと遭遇することも全然ない。筋肉なんて日常生活を送る上だと減っていく一方で腹も出て格好わるい体型になっていくもので、それを阻止するためにみんな筋トレをしてるんだから「見せるための筋肉」が一番ほしいものだしそのために筋トレしてるんだよ。

みんな体が病むと心も病むから筋トレするといいと思う。筋トレして体がでかくなって「見せるための筋肉」をつけることができればそれでいいんだよ。道行くヤンキーによく絡まれていた人もボブサップぐらいまで筋トレしてでかくなってみればいいと思う。道行くボブサップに喧嘩売る人間は道行く江頭2:50に喧嘩売る人間より少ないだろう。どちらが筋肉の質がいいかといえば江頭2:50の方が量より質という意味では良い筋肉ができているだろうと思うが、結果として恩恵を受けるのはボブサップの方だ。結局人生なんてそんなもんなんだと思う。

スピードが早くて雑なのとスピードが遅くて正確なのはどちらがよいのか?

以下を読んでの感想

http://satoshi.blogs.com/life/2016/06/time8.html

雑にやってもいいけど早いほうがいいフェーズと遅くてもいいから正確なほうがいいフェーズがあるというだけであって、どちらがいいかといわれるとやってることによるよね。としか言えない。何かを作るときには0から1にするとフェーズと1から100にするフェーズがあって、0から1にするフェーズ正確性よりスピードが必要だし、1から100にするフェーズではスピードより正確性が必要だと思う。

例えば何かのサービスを作って起業するという時を考えてみる。起業して直ぐというのはどうしてもお金がない。時は金なりとよくいったもので、時間がかかればかかるほど資本金は減っていき、早めに黒字化するためにスピード感を持って作らないといけない。作りが~とかテストが~とか言ってグダグダしてるうちにお金がつきて死んでしまったら元も子もないので正確さとかは無視してでもスピードを持って作っていかないといけない。これが得意な人というのがブログ主なんだと思う。

しかしこういう人は得てして正確性にかける。ここで言う正確性とは非常に稀に起こるエラー処理だったり正常な動作をしている間は関係ない部分だったりするところだ。そういう部分に目をつぶって作ることでスピードを上げて全体像を見せて取りあえず動くというものを作っているからこそ作る速度が早いんだと思う。

さて、じゃあこれをそのまま使い続けることが出来るか?と言われれば使い続けることはできないだろう。事業が黒字化してそれなりに起動に乗った時に時間をとって大幅に作り変えたり、テストを書いて安定性を上げたりするフェーズが必要になる。これが1から100にすると言っているフェーズだ。ここではスピードはいらない。愚直に正確に地味に作り続けなければならない。スピードを上げるよりも正確性を大事に作業しなければならないフェーズだ。

0から1を作った人は1から100にする人をスピードが遅いとバカにして、1から100にする人は0から1を作った人が作ったものを見てバグが多くて品質が悪いとバカにする。これはすごく不毛でどちらもフェーズによって重要なものが違うからスピードと正確性が違うというだけなのだ。どちらが優れている、優れていないという話ではない。どちらも必要でどちらもすごく大事なことなのだ。

どちらのフェーズもいいものを作ろうとしているというのは同じなのだからいがみ合ったりせずにどちらとも尊重しながら上手くやっていければ一番いいのだろうがよく不毛な争いをしているのを見るし、僕も品質悪いなぁと思ったり作業遅いなぁと思ったりすることもある。しかし、それはそういうフェーズであるだけなのかもしれない。一歩引いて全体を見ていがみ合わずに作業していければ一番いいんだろうなぁ。