やることやってればなにやってもいいというのは会社の建前だよね

http://b.hatena.ne.jp/entry/292460435/comment/satohu20xx

よくやることやってれば休憩とろうがなんだろうがいいっていうことをいう人がいるけど、そのやることっていうのは何を指していってるんだっていうことがいつも疑問だったんだけど、この間会社の人が言われていたことが非常に腑に落ちたのでメモ代わりに書いておく。

その人との話での結論としては「やることやってれば寝てようが何しようがいい」という言葉は、「自分で作業を管理して作業効率を最大限にするならば寝ようがタバコ吸おうが気にしないよ」と等価だということだった。僕も同じ考えで言語化することができずに非常にもやもやしていたわけだけど、端的にいうとこうなるんだと思う。裏を返せば時間と作業量でしか判断しないから、一生懸命やったとか言う過程は全く無視して評価するということなので実力主義なのだと思う。完全に実力主義の会社じゃないとあまりうまく回らない考え方なのだろうし、内の会社は実力主義ですよっていうのをアピールするときによく使われる言葉なんだと思う。

そうは言っても周りで作業を見ている人は人間だから、感覚的に1日の作業が真面目にやって5の人と、さぼりながら6をこなす人ではまじめにやって5の人の方が今までの会社では評価は良かった気がする。その評価している人たちも口をそろえて「やることやってれば俺は気にしないんだけどね」って言ってたけど、無自覚ながらもさぼっていることについての減点が入っていることがよくあった。これが一日の作業量が10の人とかが出てくると、あの人は寝ててもすごい作業できるから良いっていう感じで別格な評価をされだして、本当の意味でやることやってれば関係ないって人になれる。

リンク先では煙草休憩は良くて昼寝休憩は・・・って言ってるけど、煙草休憩してる人も裏ではあいつはタバコばっかり吸っているっていう噂が立ってることはよくあるので、煙草休憩が全面的に認められているってわけではないと思う。非常に抜きに出ている人間以外は上手く見えないところでさぼって頑張っている風に見せたほうが、真正面から昼寝を取りつつやることやってんだから文句言うな!って主張するよりも社会人らしいし、世渡り上手なんだと思う。

やることやってりゃ問題ないっていうのは死ぬほど出来る人間の話で大抵の人はそれには当てはまらないのだからこの言葉は鵜呑みにしないほうが良いんじゃなかろうか。

人は変化を嫌う

最近CMでLINEバイトを見ると嫌悪感を感じてしまう。最近のバイトはスタンプでやり取りしてチャット感覚で友達と話すようにやりとりをやっているところを想像すると時代は変わったなと思うしバイトとはいえ仕事なんだからちょっとはちゃんとやり取りしたほうがいいんじゃないかと思ってしまう。その一方で履歴書を手書きしか認めない起業に対しても嫌悪感を抱く。履歴書を手書きにしないと心がこもっていないとかいうが、読めればいいと思うし手描きよりもパソコンで書いたほうが綺麗で読みやすいしそんなことを言い出す会社は古臭いなと感じる。

これは僕が手書きからパソコンで履歴書を書いている時代に就職をしているからこう感じるだけであって、手書きで履歴書を書くのが当たり前だった時代の人間からすればパソコンで書くなんてと嫌悪感を感じ、電話やメールで面接の時間とかをオファーしていた人間からするとLINEでやり取りするなんてと嫌悪感を感じるのであろう。時代によってやり取りの方法は変わるし常識も変わるのに、昔の常識を持ち出してそんなことをやるのは失礼だと考えるのは変化を嫌っているだけなのかもしれない。

変化するということは新しいことを覚えないといけないということだし、新しい習慣を身につけなければいけないということだと思う。何かを身につけるということは年を取れば取るほど億劫になり、今までのルーチン化された動きが新たな習慣を身につける妨げになりやすい。もし、あなたが年上に何かを求めるのであれば古い常識に合わせて動けばその人はあなたに好意を持つし、年下の人であれば新しい常識に合わせて動けばその人は貴女に好意を持つ。相手を理解してその人が変化するのではなく、自分が人によって変化するとその人から受け入れられやすくなるのだろう。

しかしやり過ぎるとそれを八方美人となる。なにごとも加減が重要なのだろう。

極論で選択しちゃうと幅が広すぎて間違った方向に進みかねない

何かを買おうとするときにセールスポイントとかを聞いて、「ここがこういいんですよ」とか力説してくれる店員さんは非常にありがたい。けどたまに極論を出してきて自分が買わせたい方を勧めてくる人がいてそれが苦手。

例えば、「お子さんの健康を考えて浄水器をつけたほうがいいですよ」とか言ってくる感じの人が苦手。別にいらないから断ろうとすると「あなたはお子さんの健康を考えていないのですか?」みたいに鬼の首でもとったかのように言ってくるけど話の挿げ替えがすごいんだよね。そりゃ子供の健康は大事だし、健康になるようにしたいけどそれと浄水器をつけるかつけないかというのは別の話で、そんなことをいいだしたら全てオーガニックの物を食べたほうがいいだろうし、栄養士についてきっちり健康になるための食生活をしてもらったほうがいいし、インストラクターつけて運動学に従った運動をさせたほうが子供の健康を考えればいいに決まってる。子供の健康っていう大きな話で健康にしたいかしたくないかという極論を持ちだしてそれに商品をくっつけて話をするのは卑怯だしなんの生産性もない。

なにかを決めようとするときに極論を持ちだしてそれに付随して物事を決めようとする人には注意したほうがいいかもしれない。ベストとベターは違うしその時に一番良い選択というのは必ずしもベストな選択とは限らない。夢を語る時とかは極論で話をしてもいいと思うけど、現実的な小さな物事を決めるときに極論で選択しちゃうと幅が広すぎて間違った方向に進みかねないなぁと思う。

最後の一文が理解できなかったのが残念 – 砕け散るところを見せてあげる

読んだ。疾走感と読了後の難しさが残る作品だった。

本作は、いじめられっ子の後輩の女の子とそれを放っておくことができない先輩の男の子の純愛ストーリーが主軸となる。文章が高校生らしい疾走感を持っていて独特だと感じたので作者について調べて見るとこの人はもともとライトノベル作家らしい。ライトノベルはあまり読まないので偏見でしか無いが、文章と会話と話の進み方がライトノベル作家が書きましたと言われると何となく頷ける。文章が読みやすく軽い。

もとも本作を手にとった理由は帯に書いてあった文章だった記憶がある。「最後の一文の意味を理解した時にあなたは涙する」というような内容が記載してあったはずだ。さらに僕が好きな作家である伊坂幸太郎さんも絶賛していると書いてあり非常に興味をそそられたのだ。読んでいる間はその言葉を忘れて、わかりやすく展開してく中盤までと怒涛の展開で読者を裏切り続けていく中盤に引きこまれてしまったわけだが、終盤が誰がどの視点で書いているのか非常にわかりにくく終始理解に苦しんだ。読み終わった後に帯の最後の一文がという言葉を思い出してもう一度終盤を読みなおしてみたがわからない。最後の一文を理解したら涙すると書かれている言葉が本当なのであれば僕は理解することができなかったのかもしれない。

見せるための筋肉が僕はほしい

最近筋トレがブームなのか、どこもかしこも効率が良い筋トレで溢れている。自慢のボディの作り方とか夏までに絶対痩せるとか色々出ていてどこもかしこも煽るだけ煽って体つくりビジネスが大いに盛り上がってるよなーと思う。体鍛えるのは楽しいしいいんだけど、こういうブームがうざったいのかなんなのか「見せるための筋肉を作ってもなんも意味ないよね」とか言い出す人がいるんだけどあれなんなんだろう。そういうこと言ってる人に聞いてみたいんだが「見せるため以外の筋肉」って何を言ってるんだって思う。

肥大化しすぎた筋肉は動きを阻害してスピードを殺すとか聞いたりするけど、それを体験できるまでの筋肉とか相当頑張らないとつかない。普通の人が筋トレしてもちょっと重いもの挙げれるようになりました。ってぐらいの筋肉しかつかないし、もしスピードを殺すほどの筋肉をつけれたらそれはかなりのパワーがついてる。そして大人になって見せる以外で筋肉の使いみちってどこにあるのかよくわからない。日常生活で全力で絶対上がらないだろうと思うぐらい重いものを上げる機会なんて無いし、全力でダッシュするなんてこともない。どこぞの森に入ってくまさんが度々襲ってくるんであれば全力ダッシュするんだろうけど、僕はそんな山間に住んでないしくまと遭遇することも全然ない。筋肉なんて日常生活を送る上だと減っていく一方で腹も出て格好わるい体型になっていくもので、それを阻止するためにみんな筋トレをしてるんだから「見せるための筋肉」が一番ほしいものだしそのために筋トレしてるんだよ。

みんな体が病むと心も病むから筋トレするといいと思う。筋トレして体がでかくなって「見せるための筋肉」をつけることができればそれでいいんだよ。道行くヤンキーによく絡まれていた人もボブサップぐらいまで筋トレしてでかくなってみればいいと思う。道行くボブサップに喧嘩売る人間は道行く江頭2:50に喧嘩売る人間より少ないだろう。どちらが筋肉の質がいいかといえば江頭2:50の方が量より質という意味では良い筋肉ができているだろうと思うが、結果として恩恵を受けるのはボブサップの方だ。結局人生なんてそんなもんなんだと思う。

スピードが早くて雑なのとスピードが遅くて正確なのはどちらがよいのか?

以下を読んでの感想

http://satoshi.blogs.com/life/2016/06/time8.html

雑にやってもいいけど早いほうがいいフェーズと遅くてもいいから正確なほうがいいフェーズがあるというだけであって、どちらがいいかといわれるとやってることによるよね。としか言えない。何かを作るときには0から1にするとフェーズと1から100にするフェーズがあって、0から1にするフェーズ正確性よりスピードが必要だし、1から100にするフェーズではスピードより正確性が必要だと思う。

例えば何かのサービスを作って起業するという時を考えてみる。起業して直ぐというのはどうしてもお金がない。時は金なりとよくいったもので、時間がかかればかかるほど資本金は減っていき、早めに黒字化するためにスピード感を持って作らないといけない。作りが~とかテストが~とか言ってグダグダしてるうちにお金がつきて死んでしまったら元も子もないので正確さとかは無視してでもスピードを持って作っていかないといけない。これが得意な人というのがブログ主なんだと思う。

しかしこういう人は得てして正確性にかける。ここで言う正確性とは非常に稀に起こるエラー処理だったり正常な動作をしている間は関係ない部分だったりするところだ。そういう部分に目をつぶって作ることでスピードを上げて全体像を見せて取りあえず動くというものを作っているからこそ作る速度が早いんだと思う。

さて、じゃあこれをそのまま使い続けることが出来るか?と言われれば使い続けることはできないだろう。事業が黒字化してそれなりに起動に乗った時に時間をとって大幅に作り変えたり、テストを書いて安定性を上げたりするフェーズが必要になる。これが1から100にすると言っているフェーズだ。ここではスピードはいらない。愚直に正確に地味に作り続けなければならない。スピードを上げるよりも正確性を大事に作業しなければならないフェーズだ。

0から1を作った人は1から100にする人をスピードが遅いとバカにして、1から100にする人は0から1を作った人が作ったものを見てバグが多くて品質が悪いとバカにする。これはすごく不毛でどちらもフェーズによって重要なものが違うからスピードと正確性が違うというだけなのだ。どちらが優れている、優れていないという話ではない。どちらも必要でどちらもすごく大事なことなのだ。

どちらのフェーズもいいものを作ろうとしているというのは同じなのだからいがみ合ったりせずにどちらとも尊重しながら上手くやっていければ一番いいのだろうがよく不毛な争いをしているのを見るし、僕も品質悪いなぁと思ったり作業遅いなぁと思ったりすることもある。しかし、それはそういうフェーズであるだけなのかもしれない。一歩引いて全体を見ていがみ合わずに作業していければ一番いいんだろうなぁ。

もし日本全国民からいきなり自分が忘れ去られたなら – なくなった私へ

読んだ。このミス大賞ということで期待したが少々微妙だった。

話は、誰もが知る芸能人が目が覚めると誰も自分を自分として認識しなくなっていて、しかも自分が自殺したというニュースを見たところから始まる。自殺した理由も思い浮かばず途方にくれているところに、自分を自分だと認識できる青年と少年と出会い、3人で自分が認識されなくなった謎を調査していくのが大きな話の流れとなる。途中途中で「輪廻の泉」という話が挟まり、これがどう主のストーリーと絡んでくるのかも見どころだと思う。

認識されなくなったのが有名人という設定がよく、「このミス」の大賞を取るほどの作品となるとラストでどうまとめるのかと期待しながら読んだが話の主軸と違うところが気になりすぎてしょうがない。見ず知らずの人間を止めてくれるお人好しのお姉さんだとか、学校に行かなくても何も言われない小学生だとか、ラストシーンで唐突に出てくる感動用の人間たちとかどうしても設定の詰めの甘さを感じずに入られない。ただ、その詰めの甘さを抜きにしてもなかなか長いこの話をストレスなく読ませる力というのはすごいと思う。そういうことかという納得感はあまりなかったがとりあえずまとまってはいるんじゃなかろうか。

リライトの続編達 – リヴィジョン / リアクト / リライブ


リライトを読んで、続きということで結末が気になって読んだ。結果としてごちゃごちゃしすぎて作者の自己満足感が強い印象を受けた。

続編たちはそれぞれ大雑把に書くとこんな感じになる

  • リビジョン:過去を見ることが出来る鏡を持っている女の人の話
  • リアクト:リライトを別目線で書いた話
  • リライブ:輪廻転生を繰り返す女の話

全てがリライトに絡んでいて、想像力を掻き立てられる話に仕上がっている風だが、なんとも気持ち悪い。最後の終わり方のブラックさと腑に落ちなさが非常にすごい。

この話達でなにがわかりにくさを冗長しているかというと、タイムパラドックスの定義だと思う。現実世界では起こりえないこの現象を頑張って説明しようとしているがいまいちわかりにくい。例えば「ボールを投げたら落ちてくる」とか、「包丁で刺されたら痛い」とか現実で起きうることであれば経験したことはなくてもなんとなく理解できる。しかし、タイムパラドックスは違う。なんとかくの想像で、過去で自分の親を殺すと自分が存在しなくなるという過去を改変すると未来と繋がるというのはなんとなく想像できるのだが、今作のパラドックスの設定である「未来で起こっていることは絶対に起こるので起こると確定しているものを阻止しようとすると何かが起きる」というのざっくりしすぎていてよくわからない。すぐに地震が起こるし、そもそも確定したというのはどういう状態を表しているのかがよくわからない。そこがふわっとしている状態で話を進めているので最終的にもやもやして終わってしまったが僕よりも理解力が高い人間が読めば全く別の印象を持つのかもしれない。

タイムパラドックスと言われるとバタフライ・エフェクトという言葉がよく効かれる。蝶が羽ばたいた空気だけでもパラドックスが起こると言われているのにこれだけ色々なことをやって、それを全て伏線として回収しようとするのは無理があるのではないだろうか。あとがきを読んだ感じではすべての話の原型がきっちりと決まっている状態で3作品を書いているわけではなさそうだ。その状態でここまでまとめた技術には感服するが頑張って読んだ割に読了後のすっきり感が少ないのが残念。もうちょっと短くてもいいのですっきりとする話が好きな僕にはちょっと重すぎる作品だった。

ブラックな時をかける少女 – リライト

読んだ。読了感が悪くなんとも言えない気分になった。

話はよくあるタイムパラドックスを扱った話で、現在と過去の2つのシーンが交互に入れ替わりながら話が進む。過去の自分が現在にタイムスリップして行ったはずのことを現在の自分には起こらなかったことから話は始まり「なぜタイムパラドックスが起こったのか?」という疑問を解決していく話となる。こう書くとよくある話になるのだが、最終的に全てがわかった時の驚愕とすっきりしないむかつき感は秀逸だと思う。

この話は4部作となっているらしくこれからその先の3つを読んでみたくなる程度には面白く興味をそそられる話であると思う。しかし、乾くるみさんの本を読んだ後のような読了感の悪さが嫌いな人は読まないほうが良いのではないかと思う。現実では綺麗に終わる話というのはあまり存在しないのだから、本の中でぐらい全ての人間が救われるラストというものを読んでみたいという気持ちもわかるので、そういった人間の人には絶対にお勧めできない本だと思う。しかし、その類の話を苦手としない人間であれば読んで見る価値はあると思う。ぜひとも読了感の感じの悪さというのを感じてほしい。

何も予備知識を入れずに読んで欲しい一冊 – 去年の冬、きみと別れ

読んだ。読み進める手を止めることができずに一気に読んでしまった。

話をざっくり言うと死刑囚についての本を書くための取材した資料をまとめたものを本にしたものとなる。死刑囚はなぜ殺人を犯したのか?調査している人間はなぜ死刑囚の本を書こうとしているのか?この2つの疑問を軸として息もつかせぬ展開が繰り広げられていく。この2つの疑問が解決した時に息を呑まない人間はいないと思う。展開のスリリングさもさることながらこの落ちの付け方の旨さは流石だと思う。

中村文則という作家を僕が知ったのは「教団X」になるわけだが、あの本は哲学めいていて読んだ後にこれから先のことを考えさせられる本であったが、この本は素直に面白くエンターテイメント性が高い本だと思う。一度読み終わった後にもう一度読んでみるとさらに味わい深くなる。読めば読むほど面白くなるスルメみたいな本なのかもしれない。